アニメ映画「歎異抄をひらく」なんと満員御礼?!その秘密まるごと解説

歎異抄をひらく フライヤー

ども、エンタメブリッジライターしおりです。

5月23日の朝日新聞の朝刊に、映画「歎異抄をひらく」の公開が明日に迫る!という広告が1ページにまるまるデーンと掲載されてました。

歎異抄って聞いたことがあるけど、なんだっけな?

っとフムフムと広告を読むうちに思い出しました。

「歎異抄」は「方丈記」、「徒然草」と並び日本3大古文で、皆さんも歴史や古文の授業で習いましたよね?

有名なのはあの

善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや。

・・・でも私、それ以外知らねーやw

歎異抄が他の2つの随筆と違うのは、浄土真宗の開祖、親鸞について書かれた宗教性があることです。

そして広告を読んだ後、ここ数カ月映画館に寄っついてなかったこの私がですね、その2日後の上映にすっ飛んで行ったんですよ。

自分でも不思議なくらいの俊敏性。

すでに何かに突き動かされてる感じ。

いや、憑かれている感じといったほうがいいか?!

私は映画を観る前も、観ている最中も、観た後も、

なぜ私はこの映画を観たいのだろうか?

ということを内容よりもずっと考えていました。

「方丈記をひらく」「日蓮宗をひらく」だったらすっ飛んで行ったか?

絶対行ってないなコレ…。

それで、結局、いまだにわかってません。

そうこうしていた5月28日、家からチャリで10分ほどのところで、あの川崎殺傷事件が起きたのです・・・。

私が「歎異抄をひらく」に、異様な衝動性でもって呼ばれたこの出来事を紐解いていくのが、今回のレビューになりそうです。

どうかお付き合いくださいまし。

1.「歎異抄をひらく」の作品紹介

公開日: 2019年5月24日 (日本)
監督: 大野和寿
原作者: 高森顕徹
原作: 歎異抄をひらく
脚本: 和田清人
出演者:石坂浩二、増田俊樹、細谷佳正、本泉莉奈、市来光弘、三木眞一郎、白井悠介、伊藤健太郎。
公式サイト:https://tannisho.jp

2.「歎異抄をひらく」のあらすじ

歎異抄をひらく 唯円
画像出典:https://movie.jorudan.co.jp/

「そう言えばうちの実家って真言宗だったかな・・・でも、『真言宗って何?』って聞かれてもわかんねーや・・・」

お盆も町をあげての大イベントな田舎で育った私ですが、仏教のことは案外知ってそうで知らないな…と思いつつ、ぶっこんだ109シネマズ。

前日慌ててAmazonお急ぎ便で注文した原作「歎異抄をひらく」も、難しすぎて1ページ読んで寝落ちた始末…。

さて何が起きるやら?ってか私、話についていけるのか!?ってことであらすじへどーぞ。

「歎異抄をひらく」のあらすじ(ネタバレなし)

元ネタは31万部のベストセラーになった書籍「歎異抄をひらく」です。

まずね、出版不況の時代にこんな本(失敬)が31万部も売れること自体不思議でならん!

その秘密はどこにある?!かかってこい親鸞!

と鼻息をフンフン荒くして始まった映画ですが、始まりから親鸞は聖人です。

異様な落ち着きと微笑みで、物事に動じない聖人君子。

ゔっ、私はすでに煩悩にまみれとる…orz。

あらすじは、主人公の少年平次郎(のちの唯円(ゆいねん)、歎異抄の著者)が少年時代~青年期に親鸞に弟子入りし、観客とともに

親鸞のいう「悪人正機」とか「他力本願」とかを勉強しましょうね。

的な進行なのがこの映画です。

「ひらく」っていうのはナイスな日本語チョイスだと思いましたね。

「読む」でも「学ぶ」でもない、「ひらく」。

歎異抄、すなわち浄土真宗の教えの入口のまた入口の部分を、弟子唯円を通して「垣間見させてくれる」という映画です。

そして、親鸞に入門した唯円たち幼なじみ4人に、様々なドラマが巻き起こり、その都度親鸞の教えを学びつつ成長していく物語ってわけです。

「歎異抄をひらく」のあらすじ(ネタバレあり)

歎異抄をひらく 映画ノート
(スマホだと見づらくてスマソ)

2カ月ぶりの映画館でしたが、上映前の予告編で

あなたも映画ノートをつけてみよう!

とかわいいねーちゃんがCMしていたので、上映後まんまと売店で買ってカフェで書いてみました。

さて、日本史や古文の授業で寝てしまっていた方のために、簡単に親鸞の年表を書くとこんな感じです。

【親鸞年表】

映画の始まりは、茨城・稲田からです。

山でたまたま子供時代の唯円たち4人の幼なじみが、クマに遭遇して襲われそうになったところを、親鸞の弟子が偶然通りかかり、ユリ・ゲラーみたいな超能力でクマをすごませ、助けます。

これ、仏の力なのか?もはやシャーマン?

と疑心暗鬼になりつつも、これがきっかけで親鸞のお寺に連れられて行ったのが、親鸞と唯円ら4人の出会い。

そして親鸞に興味をもった唯円ら4人は、毎日のように寺に通い、仏法の理解を深めていきます。

4人は「阿弥陀仏の本願(あみだぶつのほんがん)」である「ご本尊」なるものを親鸞からもらいました。

歎異抄をひらく ご本尊
↑こういう念仏が旧漢字で書かれたもの。

  • 阿弥陀仏=無限の力を持つ大宇宙の仏の先生(ブッダのことじゃないよ)
  • 本願=約束
  • 阿弥陀仏の本願=どんな人も必ず極楽浄土へ救うこと

この映画は仏教用語はほとんど出てこないんだけど、「阿弥陀仏の本願」だけは連発されるのでさすがに私も覚えました。

随筆「歎異抄」は唯円が親鸞の死後、親鸞の教えを書き記したものですが、映画では1つの出来事に対する質疑応答形式で、ドラマ仕立てに内容が進行していきます。

幼なじみのうち、権八(ごんぱち)とアサは兄妹ですが、親父は飲んだくれのギャンブル依存症で、当時にしては珍しい男のニート。

そのことを親鸞に言うと、

善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや。

(善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。)

キターー!って感じだけど、それを聞いた唯円たち4人はこんな感じ。

↓↓↓

( ̄д ̄)ハァ?

まあ、そうですね…そのとき初めて興った思想なんだから。

それから

唯円「悪人って何ですか?」

親鸞「救いようのない煩悩のある人、つまりすべての人間だよ」

唯円「善人って何ですか?」

親鸞「自力で極楽浄土に行けると思っている人だが、そんなおごりさえも打ち砕いて、浄土へ誘われるべき人だよ」

のようにすっかり仏門になじみます。

映画を観たあと、親鸞や鎌倉仏教(日蓮宗とか華厳宗とか)を調べて思ったんですけど、この映画は非常に現代化されてますね。

例えば、親鸞や唯円の感じていた「不条理」とは、そもそも源平争乱の世にあって公家の体制が崩れ、武家の台頭によって既存の体制が崩れた混乱の世の中で、仏教界では末法の時代が紀元1000年頃から始まり・・・

と文字にするだけで眠くなっていくような歴史的事実とか、小難しいことは一切出てこないんですよ。

あくまで主人公の唯円や、唯円の家族、友人、ライバル、先輩といった個人的経験を通してアレンジして、親鸞のいわんとすることが現代人に響くように作られています。

6年後、親鸞が執筆に専念するため京都本願寺へ帰郷。

そして、正式に仏門の道へ入ることを決めた青年の唯円と壮賢(そうけん)も、後追いで京都へ行きます。

しかし、京都へ発つ寸前に、幼なじみ権八・アサの母親が父親に殺され、父親も自殺(?)か何かで亡くなりました。

両親を亡くした権八とアサは行方不明となり、なんだか釈然としないまま、唯円らは京都本願寺へ入門します。

ここからは、唯円を中心とするいわゆる「世の不条理」が、まるで例題のように4つ出てきます。

まず1つ目は、京都本願寺で待っていた、やたら先輩風を吹かせるただただ意地悪なライバル僧。

2つ目は、町を歩いていた唯円に

お兄さ~ん、遊んでくんな~い?

と誘ってきた売春婦が、なんと行方不明になっていた幼なじみのアサだったこと(のち、アサは唯円に助けられ、仏門に入り2人は結婚します)。

極めつけの3つ目は、アサの兄・権八が、強盗殺人を犯して、町中を見せしめで歩かされた翌日、公開処刑で打ち首にされたこと。

あと1つ付け加えるなら、本願寺にはイケメン・ロン毛の全然僧っぽくない面倒見のいい先輩僧がいたのですが、彼は

弟が遊女と結婚すると言い出して、別れるように迫っていたところ、2人は心中してしまった。

重い罪悪感を抱えていたことです。

こういった不条理に対して

「先生、どうしてですか?」「先生、どうしたらいいですか?」

とすぐに唯円はド直球に親鸞に聞いていきます。

しかし、鸞の切り返しは実に絶妙。というか抽象。

「自分で考えないと意味がない」というフロイトを想起しますね。

でもってこのやりとりこそが随筆「歎異抄」の内容なのです。

「わからないことは悪いことではない、わかった気になるのが悪い」

「自分が溺れている人は、人を助けられない。まず自分が浄土へ行く身となり、仏になって救うのだ」

など。

オウム真理教(現アレフ)を取材した映画「ドキュメンタリーA」で、女性信者が

「世の中って色んな矛盾があるじゃないですか。戦争とか。そういう矛盾に答えをくれる人は、尊師しかいない」

って言ってたけど、オウムのように答えを与えてしまったらカルトになるのだろうか?と思ってしまう。

また、唯円が、先生(親鸞)はどうしていつもそんなに落ち着いているのか?と尋ねると、

私は救われた。

どんな大きな波が来てもビクともしない、大きな船に乗っているようだ。

行く先に極楽浄土が待っていると思えばビクともせんよ。

とのこと。

そして殺人犯権八は、処刑される前夜に牢屋で唯円と会ったのですが、「どーせ俺は…」と意気消沈していたところ、唯円に「善人なおもて・・!」のセリフを投げかけられて一緒に念仏を唱えます。

処刑のときも、唯円は側でただただ念仏を唱えていましたが「権八は救われたのでしょうか?」という問いに、親鸞は

阿弥陀仏の救いに条件はない。

心の中にこういう思いはないかね?「あいつは憎い」「あいつなんか死ねばいい」

心で殺さない人など1人もいない。

人を殺した者が救われないなら、すべての人が救われない。

すべての人は権八と同じ、殺人犯なのだよ。

む、厳しいお言葉、あざっす。

でも、親鸞はいつも優しい。

この映画には両側面がある。戒めと、癒し。

これら1つ1つの不条理に親鸞の教えを聞きながら、映画のラストで老年の唯円が、親鸞の教えを「歎異抄」として書き記すところで終わります。

3.「歎異抄をひらく」の見どころ

歎異抄をひらく 悪人正機
画像出典:https://tannisho.jp/

冒頭の疑問、「私はなぜ、この映画を観たいのだろう?」このことを3日3晩考えても、まだまだわかりませんでした。

その間に子供が熱を出し、夫は出張、看病で自分も寝不足、意識レベルが下がってなんだか元気が出ず、ぼーーっとしていた昨日の朝、LINEグループで友人からメッセージが入ってきました。

登戸第1公園の近くで事件があったそうです!心肺停止の方や、怪我人の方がいます!

・・・電チャリでこげば10分もあれば行ける私の生活圏。

これがあの、「第2の池田小事件」と称されるほどの事件になってしまうとは…。

私はやっぱり、どうしてあの映画を観たのだろう?・・・

映画館に見る日本の縮図

朝9時という早い上映で、まず私が驚いたのは満席だったことです。

正直『スカスカだろうな』と予測していたので…(夫子供は隣の部屋でクレヨンしんちゃんを観ていたけど、4組しかいなかったらしw)。

シアタールームに入った瞬間目に飛び込んできたのは、まるで日本社会の縮図。

前方は、「歩こう会」とかの団体プログラムにこの映画鑑賞が入っているのでは?と思うほど、ご高齢の方で埋まっていました。

人口の4人に1人は高齢者ですからね。

そして、今まで私が映画館ではあまり遭遇しなかった、足が不自由な方や、障害をお持ちの方を何人か見かけました。

日本の障害者人口は約5%と言いますから、これもそのまま、部屋に100人いたら5人はいたようです。

座席真ん中~後方は、私のような若年~中年層。

意外にも「1人で観に来ている女子」というのもけっこう見かけました。

自分がなぜこの映画を観るか?ということも大きな疑問でしたが、このシアタールームの状況を見ると、

「なぜここにいる人は、よりによって(?)『歎異抄をひらく』を観に来たのか?」

ということも疑問に加わりましたね…。

救い、ヒント、教養…なんだろう?映画の内容よりこっちが気になって仕方ない。

まず、日本人って宗教が嫌いですよね。

「浄土真宗とキリスト教は似ている」とは言うものの、この映画はわたしゃ途中から「これってキリスト教じゃないの?」というほどあまりに酷似していてびっくりしました。

阿弥陀仏→神、親鸞→イエス、唯円→12弟子のどれか、衆生→罪びと、煩悩→原罪、と言い換えればこの話は成立します。

「悪人でも救われるならもっと悪いことしていいの?」という弟子の質問も、キリスト教では「罪びとでも救われるならもっと罪を犯していいの?」という定番の質問。

他にも類似性はたくさんあります。

もちろん、深く教理を踏み込めば両者は全く違います。

しかし映画レベルでは、浄土真宗とキリスト教の違いは、浄土真宗だと人は流転することと、死んだら仏になることの2点くらいしか見当たらない…(キリスト教は流転せず、死んでも人は人なので)。

でも、日本人ってキリスト教が嫌いなはずなんですよ。

キリスト教には「1%の壁」というのがあって、日本のクリスチャン人口は総人口の1%を超えることはありません。

海外の聖職者からは「宣教師の墓場」と揶揄されるほどの国で、私はこの現実に「どーした日本!?」と逆に心配になったのでした。

自分だけでなく、観客は何を求めてここに来ているのか?・・・とますますわからなくなったのです。

ここに、私の個人的な問いに加えて「観客はなぜこの映画が観たいのか?」ということも疑問として加わります。

311の受難

歎異抄をひらく 親鸞
画像出典:https://tannisho.jp/

私が思うに311というのは、戦後初めて私たちが経験した「共通の時代経験」です。

戦前は、世界大戦など、日本に住むすべての人が1つの体験を共有するということが当たり前にありました。

戦後、ある意味日本という国が解体したのです。

バブル崩壊で「最終目標はマイホーム」の経済目標の一致も去ってからは、個人レベルで夢や目標を見つけ、価値観すらも見つけなければいけなくなりました。

確かに、私が生きてきた中でも、阪神大震災やオウム真理教事件、911といった大事件は起きましたが、やはり「地方や外国のどこかで起きている何か」という意識で、全員が一緒になって体験したことではなかったと思います。

しかし、311は日本の地盤ごと揺さぶりました。

原発事故も相まって、戦後初めて私たちが経験する日本という国全体の受難だったと思います。

311の2週間後から、私は復興支援で宮城へ入り、避難所や行政を駆けずり回っていましたが、そんなとき東京オフィスに残った同僚から1通のメールが来てイラッとします。

しおりさん、元気ですか?私は今日会社を休みました。地震ストレスです。

はあ?アンタ、東北にいないでしょ!甘ったれないでよ!と。

でも、これは宮城に滞在中実感したことですが、実際に津波がきたのは1回だけなんですよ。

あくまで私の主観ですが、避難所で出会った現地の方々は、方向としては1度の津波からすでに前を向いていました。

でも東京では、メディアを通じて1日に何回も何回もあの津波映像が流れるわけで、もうそれはそれで十分に被災しているんですよね。

そして私たちは自国崩壊と再建の過程でどこか「自分のルーツ、土台」なるものを希求し始めたように思います。

かくいう私も311の半年後に「古事記を読む会」に参加し、日本建国からスサノオのへんまでガッツリ勉強したのですが、そこも30人の定員が若者で満席でした。

あのときはどこの本屋に行っても、カトリックのシスター渡辺和子さん著「置かれた場所で咲きなさい」が平積みでしたよね(200万部のベストセラーになりましたが、それまで渡辺和子さんは知る人ぞ知る、だったんです)。

311というのは、戦後最大の日本人が共通に持った時代経験であり「不条理」です。

全てをのみ込んだ津波は、日本人の正常性バイアス(自分とは関係ないと思っていること)を崩し、宗教ギライな我々にも宗教性、救済の心を開かせた契機となったのかもしれません。

仏教は初音ミク?

歎異抄をひらく 唯円
画像出典:https://tannisho.jp/

一口に仏教といっても宗派や教えは百花繚乱ですが、やはり震災後のここ7年ほど、親鸞ブームはあるように思います(H26文化庁調査によると、浄土真宗信徒は諸宗の中で725万人と断トツの1位)。

仏教というのはまるで、一昔前に流行った初音ミクのようで、2500年前のブッダに始まりボーカロイドで合成するように、その時代、その人に合ったものに○○派や○○宗とどんどん進化してきました。

親鸞仏教センター所長の本多弘之さんによれば、ブッダであれ、親鸞であれ、ポツンといきなり出た人ではないということです。

時間、状況、人と人、歴史的背景のなかで1人の天才や個人が悟りに気づいたのではなく、たまたま1人の人間において自覚化されたのが、ブッダであり親鸞。

すなわち、その時代を生きる人の集合的無意識が、「仏教の新たな初音ミク」を創造してきたのです。

私が着目したいのは、仏教における4つの転機。

まずは、ブッダ。

→ブッダが現れた頃のインドは、大きな都市国家が成立し、人口が増加、戦争も増加し、それ以前の遊牧社会から人間が都市化され、悩みの質が変質した時期。

そして大乗仏教。

→「仏はブッダ1人ではない」とする大乗仏教が起こったのは、仏教がインドの中から今のパキスタンやアフガン方面へ追い出され、異民族同士の戦乱が絶えなくなり、庶民が仏教を求め始めた時代。

そして親鸞。

→さっきも触れたけど、平安時代末期に貴族体制が壊れ、「何も信頼できない」「本当のものは何か?」という時代的な問いが出てきた時期。

そして今。

→親鸞の教え「歎異抄をひらく」が31万部も売れ、映画化され、そこは満員御礼。

仏教の誕生と変革の中にも、人々の意識が結集して1人の人や事を召し出した共通性がありますが、「歎異抄をひらく」も、これを映画化させたのは制作会社や配給会社ではなく、私たちだと言えませんか?

「時代の不安定性」という中で、しかもこの悪人正機で万人を救う歎異抄に興味をもつということは、私たちは心の根深いところで罪悪性や、絶対に救済されたいほどの不安を抱えているんじゃないかな。

不安などない人は勝手に羽ばたいていけばいい、でもそうはいかないから、こういう映画に人が集まる。

ボヘミアン・ラプソディだって、フレディに孤独や病気やマイノリティ性がなければあんなにわーきゃー言われなかったでしょうね。

日本人が抱える「不条理」という内面の結集・・・、そんなことを考えているとき、あの事件が起こりました。

川崎殺傷事件とのシンクロニシティ

とにかく私は昨日(5月28日)、疲れていました。

さっきも書いたけど、そもそも寝不足でなんだかボーっとしていて、出張に行く前の夫とプチ夫婦喧嘩をし、それでも熱を出していた子供を小児科に子供を連れて行かなければいけない…などと。

そして、友人から来たLINE「登戸第1公園の近くで事件がありました」を読んで、ネットニュースを見てびっくり。

すでに「第2の池田小事件」と銘打たれており、19人が無差別に殺傷…犯人も自殺。

事件現場は、うちから電チャリでぶっ飛ばせば10分で行けるところです。

あの道も日常的に通る道で、そのすぐ向かいの公園で子供と遊んでもいました。

「罪なき子供が殺される」

これほどの「不条理」ってありますかね?この世で最もつらいことじゃありませんか?

無差別事件って日本でしょっちゅう起こるけど、私にとって過去の事件は対岸の火事でした。

いざ自分の生活圏にこんな事件が入ってくると、さすがに何とも言えない不気味さと複雑さを感じます。

そして、小児科の待合室で1時間も待たされボーーっとしながら、ふと思ったのです。

不条理が起こる「地場」というのを見てみたい。

と。

寝不足なくせに、でも、自分はその場に立たなければいけない気がする、と。

そして夕方、LINEをくれた友人と、元気になって登園許可書をゲットした娘と献花に行きました。

無計画に出かけたもんだから、あの辺に花屋ってないので、そのまま事件現場前のファミリーマートでジュースを購入。

現場はマスコミで騒然としており、2車線道路なのだけど、路駐車のせいで渋滞がひどい。

「これ、駐禁切られないのかな?」

と友人と話しつつ、マスコミをすり抜け献花場所へ。

そこに置いてあった大量のジュースや花を見て

なんでいっぱいあるの?しんだの?

うちの5歳児がデカい声で叫び、ドン引きする・・・。

ジュースを供え、しばし目を閉じて手をあわせると、カシャカシャカシャカシャっと右下の方からシャッター音が激しく侵入してきました。

子連れということで絵になるんだろうけどさ、弔いに集中できなくてうっとうしい。

目を開けると、カメラマンは無礼にも、片足を献花に突っ込んでまで私たちを撮ってる。

お祈りしたあとも、

すいませーん、ニュースZEROですけど、お子様を持つお母様としてお話聞かせてもらえませんか?

とマイクを持ったやたら美人に話しかけられ(キャスターなのか?)、これもまた、「不条理という場」に深化していけなくてイラッとする。

感じたのは、やはり311のときと同じことでした。

これ、メディアを通じて見た人は、もっと疲れ果てて、恐れや不安のイマジネーションも膨らむだろうな、と。

ファミマではもはや仕事帰りのサラリーマンが、スルメイカとか普通に買っているし、通行人も基本的に日常で、マスコミはマスコミで資本主義の仕事をせっせとこなしている現状。

日常に戻っていないのは、少なくとも私にはテレビだけ。

不完全燃焼になりつつもとぼとぼ家に帰り、またこのレビューと向き合うことに・・・。

結局・・・なぜ私はあの「歎異抄をひらく」を観たのか・・・?

「人事を尽くして天命を待つ」の逆転

歎異抄をひらく 稲田
画像出典:https://tannisho.jp/

地場という話でいえば、あの映画館はお寺のような地場だったと思います。

正確に言えば、最初からお寺って地場だったわけでなく、「歎異抄をひらく」を観ているうちに、あそこにいた観客全員がシアターをお寺へという地場に変容させたのです。

そして昨日事件現場で「不条理にさえ入れなかった不条理」を経験した今、やっと、

なぜ私(たち)はこの映画を観たいのか?

という問いに対して、いくつかの結論にたどり着くことができました。

まず私は、当初はやっぱり唯円や親鸞など、映画の登場人物の人間観察をしたかったのだと思います。

その興味は次第に「観客」へ移りますが、あそこに集まった人はどこか現実生活では共有できない「不条理」に対して、この映画に何か期待を寄せていたのではないでしょうか?

先ほど「日本社会の縮図」と言いましたが、後でよくよく思い出したら観客の7~8割は男性だったと思います。

さっきの仏教初音ミク論で考えると、戦後の今、日本は国家VS国家の総力戦がなくなったかわりに、弱肉強食のゼロサムゲームを個人VS個人で日常的にやっているように思います。

そして、その日常とはひたすらな成長主義で、そこにとどまり続けることはしんどい――だけど降りて敗北感を味わうことが目に見えると、それはそれで恐ろしい。

若ければそれでも食らいついていくかもしれません。

しかし人は誰しも歳をとり、義父母を見て常々感じることですが、高齢になればそこから降ろされて病気や怪我、死を見据えながら生き方を捉え直さなければいけません。

医療だけは発達しているので、そんな不全な状態でも1秒でも長く生きさせられます。

若い世代はこの戦いの質は少し違うようで、耐えられないのは自分があまりにもアノニマス、匿名、名無しのごんべ・・・この焦りがとても激しいように思います。

この「自意識は強いがセルフイメージは低い」という現象は、核家族化で1人っ子も多い環境ではどうしても起こり得ます。

大切に育てられる一方で、干渉も一点集中。

自分は絶対何者かであると信じているけど、そうでない現実にぶつかり、どうにかして「何者か」になろうとするけれど、なれなかったら被害者意識に転じて、だんだん他人や社会のせいにしていく・・・。

そういったフラストレーションの多重構造の中で、国家という戦争が終わった後も、結局は個人VS個人で戦争を続けているのではないでしょうか?

そこでも敗北してしまったら、今度は自分VS自分で戦争を始めます。

今回起こったような無差別殺人の犯人は、この「自分との戦争」にまで敗北してしまった人でしょう。

殺人まで行かなくとも、鬱になって負の攻撃性を持つ人があまりにも多いこともそれを象徴していると言えませんか?

そして私が1つご紹介したいのが、明治時代、親鸞の教えを西洋哲学を取り入れて解釈した清沢満之の言葉です。

天命安んじて 人事を尽くす。

これは、孔子の「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の言い換えです。

「天命安んじる」とはつまり、「今あるものを与えらているのだ」という事実そのもののことです。

親鸞的に言うとこれは「阿弥陀仏の本願(極楽浄土へ行ける約束)」になりますが、そうでなくても「今、ここに与えられているもの」に満足して安心する気持ちと言っていいでしょう。

まず天命がある――人智を超えた、限りある命や置かれた状況を「もんのすごいいただきもの!」として受け取り、人間は愚かで罪深くどうにもならないと知った上で、与えられた命としては全力を尽くすこと。

少なくともあの映画館につどった人は、映画を観たあと「天命安んじて人事を尽くす」という気持ちを少しでも味わったのではないでしょうか?

おそらくみんな、人事は尽くした、尽くし果てたのです。

ただ、その先がわからない、その先を知りたい・・・

311が起きて、いつ何時すべてを失うかわからないことも刷り込まれてる、だけど、日常に戻れば結局戦いがある・・・。

その先の天命を知りたくて知りたくて、あの映画館に集まったのだと思います。

そして「そのままでいい」「煩悩のままでいい」とひたすら言い続ける親鸞に、全員が「順番が逆だ」という気づきを与えられたのです。

事実、私がこの映画を観終えたあとの感想は「癒し」でした(だったらそれだけ書けよって言わないでくれw)。

映画が終わる頃には、「天命に寄り頼み、安らぎを得ながら人事を尽くそう」という湧水のようなものが観客全員に注ぎこまれていて、あの場を、お寺という地場に皆で変えたのではないでしょうか?

これが私の、最終的な結論です。

4.「歎異抄をひらく」をオススメしたい人

歎異抄をひらく 稲田
画像出典:https://tannisho.jp/

「歎異抄をひらく」は人間をやんわりふんわり包み込んでくれるような何かがあります。

昔流行った映画「おくりびと」の原作「納棺夫日記」も浄土真宗を土台に書かれているんですよね(映画ではそこはバッサリ割愛されましたが)。

「歎異抄をひらく」もあくまで美しい随筆と宣伝されていますので、気負いなく気軽に足を運んでいただきたい映画です。

ちょっと時間ができたご高齢の方

ご高齢の方で、ちょっと時間ができたときに娯楽として観るのにはオススメです。

私の義父は映画好きなのですが、

最近の映画は演出や音楽にこだわったのが多すぎてつまらん!もっと中身を味わいたい。

とキレ気味に映画業界を一蹴しておりましたが(笑)、この映画は「味わい系」です。

歎異抄の内容を正確に知らずとも、エンターテインメントとして楽しめると思います。

寺社巡りが好きな方など、ちょっと方向を変えてぶらりと映画館へ出向いてみてはどうでしょうか?

すでに「歎異抄」や「教行信証」に精通している方は、物足りないと思いますのでお気を付けください(笑)

親鸞の教えをわかりやすく知りたい人

歎異抄をひらく アサ
画像出典:https://tannisho.jp/

日本で人気ナンバー1の浄土真宗開祖、親鸞が気になる人はオススメです。

少なくとも私が目にした親鸞の文献や資料の中では、この映画が1番親鸞のことがわかりやすかったですね。

原作「歎異抄をひらく」もかなり気合いを入れないと読めないので、映画の方が絶対にオススメ!

親鸞てクリエイティブなんですよ。だって、

所詮人間とは愚かな生き物。

もう煩悩から逃げるのは無理だから、その中に立ってしまえ!

と発想を180度転換させたんだから(笑)

仏教用語も最小限だし、現代人がわかる話題でもって、親鸞の教えを優しく教えてくれます。

親鸞曰く、「阿弥陀仏の本願」には2度ご利益があるそうで、1つは極楽浄土へ行く利益、もう1つは皆さんの好きな現世利益(笑)

気になる方は、映画館へGO!

デートで映画を観るのに迷うカップル

意外かもしれませんが、「今度映画でも行く?」「何観る?」と迷ったカップルにはオススメです。

「坊さんなんか興味ねーよ」と相手の拒絶反応がなければぜひ映画館へ!

泣けはしないと思いますが(でもすすり泣いてる人いた)、カップル向けなのは、映画が終わった後、あーだこーだと話題ができることですね。

お互いをよくディープに知るのにいいのではないでしょうか?

というか何気に声優陣も豪華なのでそのあたりも見どころです(って私はよく知らないんだが、24歳の友達♀がキャーキャー言ってたからw)

この私が珍しくカップルに勧めているので、騙されたと思ってぜひ(笑)

悩める子羊

悩める子羊との自覚がある人は映画館へ行きましょう。

医者がいるのは病人のため、親鸞がいるのは悩める子羊のためです。

この映画で親鸞はいつも優しく温厚に徹します。

そして「問い」を立てます。

問いは、そっと背中を押してくれるような、優しく、でも人生の深淵に迫るような問いです。

今時代が親鸞を求めているということは、親鸞には何かあるということです。

信仰なんて強いものを求める必要はありません。

ただただこの映画で、生きていくための知恵やヒントをいただいてはどうでしょうか?

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