エンタメブリッジライターしおりです。
今回ご紹介するのは2014年米林宏昌監督作品、ジブリ映画「思い出のマーニー」。
喘息の持病があり、人にとけ込むことができない12歳の主人公杏奈が、療養先で空想の少女と交流し心の問題が癒されていく話です。
「思い出のマーニー」のテーマは「思春期の絶対的な孤独」。
私は今回「思い出のマーニー」レビューを書くにあたり、まず図書館に出向いてデータベースで『思い出のマーニー』と検索しました。
すると、おや?
ジブリやマーニーの原作本に紛れてヒットしたのは、元文化庁長官でユング心理学者の河合隼雄氏の著書…。
「河合隼雄とマーニー、何の関係があるんだ?」
と彼の関連著作を借りて帰って夢中で読んでしまったのですが、河合隼雄の児童文学への造詣もまた、私がこれまで気づくことのなかった「思い出のマーニー」の新たな考察と魅力を引き出してくれました。
マーニーと河合隼雄を突き合わせて読むと本当に短期間で人生が一皮むけた気がします。
最近たまたま「谷川俊太郎×河合隼雄」の対談本を読んでいたところだったんですよね。
さて、そんなシンクロニシティの不思議はここまでとして、早速「思い出のマーニー」のレビュー本編に入りましょう!
1.「思い出のマーニー」の作品紹介
監督:米林宏昌
原作者:ジョーン・G・ロビンソン
原作:When Marnie Was There
出演者:高月彩良、有村架純、松嶋菜々子、大泉洋、寺島進、黒木瞳、ほか。
主題歌:Fine On The Outside(プリシラ・アーン)
受賞歴:日本アカデミー賞にて、最優秀アニメーション作品賞優秀賞受賞。アカデミー賞にて、長編アニメ映画賞ノミネート。
こちらが「思い出のマーニー」予告編。
序盤から順調に友情を育んでいることが杏奈とマーニーですが、2分20秒頃「どうして私を裏切ったの?」とパジャマ姿で叫ぶ杏奈…。
あれほど仲良く見えた2人に、いったい何が起きたのでしょうか?
2.「思い出のマーニー」のあらすじ
画像出典:https://prcm.jp/
続いてあらすじをご紹介します。
思い出のマーニーは原題「When Marnie Was There」。
原作は1967年に発表されたイギリス児童文学で25万部のベストセラーとなりました。
これを日本版に主人公を改変したのがジブリ「思い出のマーニー」です。
「思い出のマーニー」のあらすじ(ネタバレなし)
札幌市在住の12歳の主人公、杏奈。
美術の授業で公園でスケッチをしていました。
クラスメートがキャアキャア言い、遊具で遊ぶ園児たちの笑い声が響く中、友達がいない杏奈は1人ベンチに座って黙々とスケッチをしています。
この世には目に見えない魔法の輪がある。
輪には内側と外側があって、この人たちは内側の人間。
そして、私は外側の人間。
喜怒哀楽を失ったように、感情を表に出せない杏奈。
スケッチブックにどうしても描けないのは「人間の絵」でした。
これだけ人が集まっている光景なのに、杏奈は「内側の人間」がどうしても自分のスケッチブックに描けないのです。
だからその絵は遊具だけ。
私は、私がキライ。
そう呟いたとたん杏奈は持病の喘息発作を起こしてしまいます。
思春期の「絶対的な孤独」の真っ最中にいる杏奈。
杏奈の喘息はストレス要因で出てしまうため、しばらく空気のきれいな海辺に住む親戚夫婦の家で療養することになりました。
心配性の母と別れて着いたのは湿地地帯の一軒家。
杏奈はどのように自分の課題を克服していくのか?
ジブリに似合わずシュールな音楽や雰囲気でありながら、ここから杏奈の命をかけた大冒険の始まります。
「思い出のマーニー」のあらすじ(ネタバレあり)
画像出典:https://prcm.jp/
同じ道内の「岸崎別」の駅で出迎えてくれたのは、杏奈の親戚の大岩夫婦。
先にネタバレしますが、杏奈の母親は実母ではありません。
杏奈が6歳頃に施設にいたところを引き取ってくれた里親です。
この里親がまたとんでもなく心配性で、いつも泣きそうな顔で眉間にしわを寄せ、杏奈曰く『メエメエうるさいヤギみたい』に心配してくる顛末。
それに比べて「ぜんそくなんだってー?!はは、ここの空気に当たればすぐに治るさ!」と豪快で明るい大岩おばさん&ひょうきんなおじさん。
杏奈は里親とのテンションの差に驚きはするものの、結果的にこの2人の「楽観的な見守り」に徹した態度は功を奏したでしょう。
杏奈はここで主に好きなスケッチをして過ごすことになります。
そして海のほとりの湿地に立つと、入り江の反対側にある洋館のようなお屋敷が目に入ってきたのです(通称「湿っ地屋敷」)。
その瞬間、サーっとデジャヴを感じた杏奈…。
なんだろう、あのお屋敷、知ってる気がする…。
近づいてみると屋敷は古ぼけた空き家。
ここから杏奈の現実と空想とが入り混じるようになります。
私が思うに、この岸﨑別という土地はこの湿っ地屋敷、つまり、後に出てくるここの住人マーニーを中心に結界が張られているような地場ですね(ほとんどの住民は気づいていないですが)。
最後「あなたもマーニーに会ったのね」というおばさんも出てきますからね。
さて、うっかり湿っ地屋敷の庭で寝てしまった杏奈は、目が覚めると海は満潮になっていて向こう岸に歩いて帰れなくなっていました!
幸い、トイチという絶対にしゃべらない無口な老人にボートで向こう岸の家まで送ってもらいますが、ボートから屋敷を見ると明かりがともっており、髪を老婆にとかれているブロンド少女の幻影を見ます。
このトイチ、子供たちから「やーいだんまりトイチー!10年に1度しかしゃべらないトイチー!」などとからかわれるちょっと変わった人なのですが、彼はこの映画で非常に重要なトリックスター的役割を果たしていると思います。
昔のムラ社会には必ずこうした頭のおかしい人がいて、例えば私の地元には「ホウじいさん」というあだ名のじいさんがいて、いつもボロ自転車に乗り子供たちとすれ違うたびに「ホウッ!」と吠えてきて子供たちはキャーキャーと逃げ回ったり、いないところでからかったりしていましたが、こうしたトリックスターの存在は「神や仏の言葉を預かる人」としての役割もあり、さらにそうした存在を許している共同体は豊かなのです。
トイチだけが杏奈の幻想の世界の湿っ地屋敷にボートで行き来できますからね。
人一倍感受性の豊かな杏奈もそれをわかってか、早いうちにトイチに心を許し、両者に会話はなくともよくボートに乗せてもらってスケッチをしていました。
そんなある日、事件勃発。
杏奈は、親戚のおばさんとご近所の教育ママとの会話の流れにより、教育ママの娘信子と神社の七夕祭りに行くハメになったのです。
ここまで観ているとわかりますが、杏奈は人の中でもとにかく同年代の同性と上手くやることができません…(が、これもまた思春期にはとても自然なことなのであまり心配することないんですけどね)。
首を垂れて浴衣を着て、てくてく信子たちと神社に歩いていく杏奈。
短冊の願い事に秘密裏に「毎日普通に過ごせますように」と書いた杏奈ですが、信子に「見せて見せてー!」とパッ取り上げられて、
「普通?普通ってどういうことー?・・・あっ杏奈ちゃんの目の色!よく見るとすごくきれい、ちょっと青が入ってて…」
杏奈、たまりかねてプッツン暴言。
いい加減放っておいてよ!ふとっちょブタ!
信子は「ふーん、普通の意味が分かたわ。でもかわいそうに、普通のフリをしてもムダ。だってあんたはあんたの通りに見ているんだから」と言われ、我に返った杏奈は泣きながら湿地に走り去って行きました。
私は私の通り。
醜くて、バカで、不機嫌で、不愉快で、だから、私は私が嫌い…だからみんな私を…。
杏奈は1歳頃両親が死亡、葬儀の場で親戚が杏奈を押し付け合っている光景が頭にこびりついて離れず、このときもそのシーンが回想されます。
どん底まで落ちた(と感じた)このときから、ついにマーニーとの交流が始まりました。
目の前にボートでおもむろに湿っ地屋敷に漕いだ杏奈は、とうとう「ロープをこっちへ投げて!」と駆けってきた生きたマーニーと対面するのです。
杏奈「あなた、ホントの人間?私の夢に出て来た人にそっくり…」
マーニー「夢じゃないわ。あなた、なんて名前?私、どうしてもあなたと知り合いになりたいの」
杏奈をしょっちゅう見たことがあり、湿っ地屋敷に2歳からずっと住んでいるというマーニー。
2人の関係は秘密にすると約束し、同年代の同性と上手くやれないはずの杏奈がなぜか心を許して、マーニーと親しくなるのです。
帰宅すると、信子の母の教育ママが先ほどのふとっちょブタ発言の件で「あなたたちにも責任はありますよ!」と押しかけて大岩夫婦に怒鳴りつけていました。
隠れて聞いていた杏奈ですが、「帰りが遅いくらいなんだってのよ。不良なもんですか!あの子が!」というおばさんの発言に救われもします。
満潮になるとマーニーに会えることを知った杏奈は、翌日入り江に降りていくと、今度はマーニー自らボートを漕いで「ピクニックよ!」と迎えに来てくれました。
1晩に3つずつお互いに質問をする約束をして、お互いのことを知っていく2人。
杏奈は喘息があること、里親と暮らしていること、マーニーは両親はほぼ海外にいてばあやとねえやと暮らしていると打ち明けます。
そしてマーニーの提案で、杏奈は湿っ地屋敷で開催されているパーティーに花売りとして参加することになったのです。
杏奈はドレスを着たマーニーが、若い男の子(幼馴染の和彦)と踊っていることに「嫉妬」という感情が芽生えます。
マーニーはそこはスルリとかわして「私たちも踊りましょ」と庭で杏奈とも一緒にダンス。
ーーー目が覚めると、杏奈は郵便局の近くで裸足て倒れていました。
そしてまたまた事件発生。
杏奈が湿地でスケッチをしていると、隣で油絵を描き始めた「ひさこさん」という年配女性が現れます。
ひさこさんもまた湿っ地屋敷に魅了された1人で、湿っ地屋敷の絵をよく描いていたのでした。
ひさこさんから杏奈に衝撃の事実が知らされます。
なんと湿っ地屋敷に新たな居住者が引っ越してくることになり、改修工事が進められているというのです。
驚いて湿っ地屋敷に突っ走っていった杏奈ですが、2階から新住人の眼鏡をかけた少女にいきなりこう叫ばれます。
あなた、マーニー?!
ギョッとした杏奈…少女はさやかという名前で、片付け中部屋から『マーニー』という人物が書いた日記帳を見つけて興味深く思っていたのです。
ただ、この頃杏奈はすでに『マーニーは自分が作った空想の人』という意識があったので、マーニーがリアルに書いた古い日記が現存して出てきたのには仰天。
マーニーって結局誰…?
ここで誰もが思う疑問でしょう…そしてさやかと杏奈は協力してそれを探る旅が始まったのです。
その夜、杏奈が湿地でマーニーをスケッチしていると「それあたし?」とひょっこり現れたマーニー。
この日、2人はとても親密な時間を過ごしました。
マーニーがパパから教えてもらったというキノコ採りをしながら、お互いの秘密を暴露し合ったのです。
私、もらいっ子なの。
本当の両親は小さい時に死んだの、おばあちゃんも。
わざと死んだんじゃないってわかってるけど、ときどき思うの。
「許さない、私を1人ぼっちにして」って。
杏奈は、自分がいることで里親が自治体から受け取っている助成金のことを気にしていました。
「金目当てではない」とわかっているのに里親を悪く感じてしまうこと、自分だけそんな助成金をもらって疎外感があること…。
マーニーも裕福で恵まれた人と思われていながら、本当は淋しさを抱えている少女でした。
今はほとんどパパやママと会っていない。
ばあやはいつも機嫌が悪い。
『悪い子はサイロに閉じ込められて、オバケに魂を抜かれてしまえ』って。
サイロとはこの地域の丘の上にある、かつて家畜の飼料庫に使われた塔のようなさびれた怖い建物で、マーニーはねえやに本当にサイロに連れて行かれたことがあるというのです。
それを聞いた杏奈はマーニーに「サイロに行こうよ!オバケがいるなんて嘘だよ。マーニーを助けたい!」と2人でサイロに行くことを提案しました。
サイロに向かった2人ですが、ここでマーニーのほうが記憶が交錯…杏奈のことを、恋人だった「和彦」と呼ぶようになってしまったのです。
雷雨の中サイロに行った2人。
お化け屋敷のような怖さに泣き叫ぶマーニーは、なんと杏奈を置いてきぼりにして和彦と一緒に立ち去ってしまいました。
「あなたまで私を…」とマーニーに置いて行かれたことに怒り絶望する杏奈。
杏奈は高熱で帰り道で倒れてしまい、家で意識もうろうとしながら寝込みます。
ここからが劇的な瞬間———杏奈は夢の中で泣きながら湿っ地屋敷に走っていき、マーニーに叫びます。
杏奈「マーニー!どうして私を置いていったの!どうして私を裏切ったの!」
マーニー「もう私はここからいなくならなければいけない。さよならしなければいけないのよ。杏奈お願い、『許してくれる』って言って」
杏奈「もちろんよ、許してあげる!ずっとあなたのこと忘れないわ、永久に!」
ここでマーニーとの交流は終わり。
結局マーニーは誰だったのか…?その答えを握るのは、湿っ地屋敷の油絵を描いていたひさこさんでした。
熱が下がった杏奈とさやかは「マーニーのことを教えてください」とひさこさんに詰め寄ります。
マーニーはひさこさんが小さいときの幼馴染で、マーニーが次のような生育歴をたどった人だと教えてくれました。
- 両親がほぼ家におらず、お手伝いさんに虐待をされて育った。
- 幼馴染の和彦と結婚して娘エミリが産まれたが、夫・和彦はすぐに病気で亡くなった。
- マーニーもストレスで発病、サナトリウムに入り、嫌がる娘エミリを全寮制の小学校に入れた。
- エミリは母マーニーを恨むようになり、家出同然で駆け落ち結婚、出産。
- エミリとその夫は交通事故死、子供はマーニーのもとに預けられてマーニーは「たった1人の孫」と溺愛した。
- 娘を失ったショックから立ち直れずマーニーも1年後、今から10年前死亡。
数々の不幸に涙する杏奈ですが、療養期間を終える頃には顔が爽やかになっています。
マーニーとの交流を通じて、ポジティブな感情もネガティブな感情もさんざん体験した杏奈は、「普通」を取り繕うのをやめて、人と人との間にあった「魔法の輪」が融解していたんですね。
ラスト、迎えにきた里親が「昔の写真を整理していたら出てきた」という1枚の写真を杏奈に渡します。
それは湿っ地屋敷の白黒写真で、杏奈が施設から引き取られたときに「おばあちゃんのものだ」と大切に握りしめていたそう。
写真の裏にはこう書かれていました。
私の大好きな家 マーニー
つまりマーニーは亡くなった杏奈のおばあちゃんだったのです。
マーニーと杏奈の血縁関係を整理すると下の図のようになります。
血縁のある祖母と交流していたことに涙が溢れ出る杏奈..。
療養で一回りも二回りも大きくなった杏奈は里親に敵意はなく、むしろ許すことができていました。
トリックスターのトイチが最後に釣りをしながらボソリと口を開きます。
マーニー…青い窓に閉じ込められた少女。
昔の話だ。
トイチもまたマーニーの作る「岸﨑別」の地場で生きる一人なのでしょう。
車に乗って札幌に笑顔で帰っていく杏奈でした。
3.「思い出のマーニー」の見どころ
画像出典:https://prcm.jp/
続いて「思い出のマーニー」の見どころをご紹介します。
「ジブリだから」という理由で安易に宮崎駿作品、高畑勲作品と比較することなく、単体としての美しさと強さに目を向けていただきたいと思います。
主題歌「Fine On The Outside」の悲しすぎる歌詞
まず「思い出のマーニー」エンディングでポロンポロンとギターの音色にのって流れるプリシア・ラーンの主題歌「Fine On The Outside」の悲しすぎる歌詞を見てみましょう。
日本語訳だとこうなります。
小さい頃からずっと 友達は少ないほう
だから平気でいられるようになったの
ひとりでも ひとりでもこれからも外側にいたっていいの
学校ではひとりで食べるのが好き
いつもそう ずっといると思う
ここに ここにこれからも外側にいたっていいの
夜更けに何時間も 自分の部屋で座って月を眺め
誰が私の名前を知っているか思いをめぐらすもし私が死んだら 泣いてくれる?
私の顔を覚えていてくれる?
英語だから聴いてるとド直球に頭に歌詞が入ってきませんが、かなり暗いですよね…。
14歳頃の私ならどっぷりハマっていただろうな~w
学校の同級生にもこういう子、1人や2人いましたよね。
プリシラ・アーンさんは思い出のマーニー公開時20歳、「この歌は7年くらい前に作った歌で、中学校や高校に経験した孤独感を歌っている。いつも私は友達の輪に入っていけない気がしてた」とインタビューで語っています。
この歌詞はプリシラ・アーンの個人的体験ながら、そのまんま杏奈の心情に映し出していると思います。
杏奈の口癖「普通」の意味は?
さていよいよ本題に入ります。
杏奈のこだわりは「普通」であることです。
「普通であるように」と毎日の生活が続くことを望み、七夕の短冊にも「毎日普通に過ごせますように」と書きます。
教育現場ではよく次のように言われますよね。
暴れたりいたずらをしたりするような子よりも、目立たずに何もしない子のほうが難しい。
杏奈はもちろん後者のタイプで「感情を出さずに日常が平穏無事に過ぎ去ることが”普通”」と解釈してそのように生きます。
杏奈は、「この世には魔法の輪があって私は外側の人間だ」と言った後に、「でもそんなことはどうでもいいの」と、『気にしたところで内側には入れないのだ』という『普通癖』に沿って生きることを徹底します。
杏奈は喘息という病気を抱えていますが、往診に来た医師に「喘息以外これといった問題はない」と診断され、これもまた実に奇妙なことです。
杏奈の抱えた問題は、本当のところ深すぎて本人さえもわからない類のものなのではないでしょうか?
河合隼雄氏は杏奈の精神的課題について、
「問題」などという呼び方で呼んでいいのかさえ解らないものだ。
と臨床家の立場から解釈しています。
だからこそ「思い出のマーニー」で特筆すべきは、「杏奈は現実の人間では誰1人癒すことができなかったこと」「できたのは幻想の世界の住人マーニーだけだったこと」なのです。
ではこのマーニーは何者だったのかについては、後ほど考えていきましょう。
成人になるための通過儀礼がない時代に
画像出典:https://prcm.jp/
マーニーが何者かを考察する前に、本作の大きなテーマ「成人への通過儀礼(イニシエーション)」について考えてみましょう。
私たちには20歳で一応成人式なるものがありますけど、中身は形骸化していて着物着て写真撮って「酒解禁」程度の意味しかないですよね…。
イニシエーションはもう今や一部の未開地域にしか残っておらず、日本などの先進国ではこれは各々個人的にやり遂げなければいないタスクとなりました。
昔ながらの成人通過儀礼の意味とは「神によってすでに出来上がった世界=神の領域」に、一定の年齢に達した青少年が試練を持って入れてもらうという意味を持っていました。
つまり、1回の成人通過儀礼を経れば、子供ははっきりと線引きして大人になるのです。
近代以降、制度としての成人通過儀礼は世界的にほぼ消滅します。
「神の領域」に1度入れてもらうことよりも、「人間は進歩し続けるもの」と認識が広まっている昨今、「より良く生きる大人」になるために、私たちは20歳を超えてもなお、死ぬまで「終わらないの神の領域への成人通過儀礼」を何度も何度もやり遂げねばなければいけなくなりました。
杏奈の療養期間は成人通過儀礼の意味があり、かつ喘息による身体症状が、「つまづき」と「深い内省経験」として、大人になっていくためのステップとなった面があることを忘れてはいけません。
一昔前で言えば、肺炎などの重篤な感染症を引き受けてそれが成人通過儀礼となっていた事実もあるわけで、人生とは一辺倒な解釈を許さぬ全体的を捉える大きな目線が必要だと感じさせられます。
怖い?マーニーって結局誰なの?
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「マーニーは結局誰だったのか?」ということはこの映画を見ると多彩な解釈が生まれる部分でしょう。
現実的には「杏奈の亡くなった祖母」と回収されますが、なぜその祖母が少女の姿となって療養中の杏奈の前に立ち現れたかは謎を残します。
河合隼雄氏はこのことについて、杏奈はそもそも心や体といった領域だけではなく、第3の領域…つまり、「体と心の両者を合わせて全体性を形作るような『たましい』との接触が上手くいっていなかったのではないか?」と解釈しています。
杏奈は生まれて1~2年ほどで両親が交通事故死、身寄りがなくなり施設に預けられたのち、里親である今の母親に引き取られる悲運なバックグラウンドの持ち主。
療養を引き受けた大岩夫妻の優れた点は「杏奈を好きになり、杏奈の自由を尊重し、杏奈の内面には深く触れなった」という受容に徹したところです。
ただ、大岩夫妻と杏奈が1か月気ままに過ごしただけで、杏奈の「たましい」が癒されるとはおよそ考えられません。
他人のたましいはいくら手を差し伸べても届かない領域で、人間は他人のたましいに直接触れることは絶対にできないのです。
杏奈の場合も「たましいのほうからこちらに自然に向かってくる動き」を待つしかありませんでした。
そして、たまたま湿っ地屋敷を入り江で見たときに既視感に襲われ、「これこそ自分が探していたものだ」と感じ取ります。
たましいの世界は、ふとあるときある人に対して、この世の存在を借りて立ち現れてくるのです。
私も大学卒業旅行で1人ケニアを放浪していたとき、「あれ?ここなんか見たことある?」というデジャヴを引き起こした場所に巡り付きました。
大岩夫妻最大の功績は、杏奈に「気ままな暮らし」を許してくれたことで、杏奈はもっぱら湿っ地屋敷という「たましいの国との接触」に力を注ぐことができました。
そしてある日、たましいの国に住人がいること——「マーニーの存在」に気づくのです。
杏奈とマーニーの「たましいの交流」とは何だったのか?
杏奈がたましいの国の存在(湿っ地屋敷)に気づいてすぐのこと、現地の同年代の女子信子に対して、
ふとっちょブタ!
と言って激しい自己嫌悪に陥ります。
その後泣きながら逃走して、とうとう生きたマーニーと対面します。
まず感情を殺してばかりいた杏奈が、「普通」を手放して感情でいっぱいになって暴言を吐いたことは喜ぶべきことです。
例えそれが「怒り」という一見ネガティブなものであったとしても、多くの場合プラスのことはマイナスの形でまず表現されますからね。
杏奈の心は、「考え」や「感情」によってとうとう活動し始めたのです!
心がたましいと接触し始めたことで、外界とも接触が始まってきたとも言えるでしょう。
以来、杏奈とマーニーは、
杏奈「私を見たことがあるの?」
マーニー「ええ、しょっちゅう」
杏奈「会いたかった、心の中でずっと呼んでいたの」
マーニー「私はあなたを愛しているわ」
などとたましい領域で交流を続け、最後は杏奈の心の深淵にあった秘密をマーニーに打ち明けます。
死んだ両親に対して「許さない、私を1人ぼっちにして!お金までもらっている!でもそんな自分が嫌い!」と、悲運に振り回されてきた嘆きを半ば八つ当たりっぽくマーニーにぶつけますが、マーニーの返答は意外なものでした。
私はあなたがうらやましい!
あなたはもらいっ子で幸せだと思う。
もし自分が身寄りのない子だったのだら、その時に養女にしてくれたお父様、お母様こそ本当に親切な人なんじゃないかしら?!
このセリフからは、実の両親と富があってもマーニーは決して幸せではない状態が伺えますね。
ここから、ついに慰め合う両者の役割に「反転」が生じ始めます。
杏奈は泣くマーニーを抱きしめてこう言いました。
かわいそうなマーニー。
私もあなたのことが1番好きだよ。
なんか私たち入れ替わっちゃったみたい。
杏奈はついにマーニーという存在を自分の内に取り込みます。
杏奈とマーニー、2人によって表されていたものが、ついに杏奈という1人の人間の中に統合されてきたのです。
「許してあげる!」杏奈の叫びの背後にあるもの
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杏奈がマーニーの人格を統合したことは、すなわちたましいの国からきたマーニーが役割を終え、杏奈とマーニーの別れが近いことを同時に示唆するものでした。
その後杏奈とマーニーはひと悶着し、別れの儀式が始まります。
サイロで杏奈を置いてきぼりにして、幼馴染の和彦と立ち去ったマーニー。
杏奈は、マーニーがまるで過去に死に去った実家族のように自分を置き去りにしたことにブチ切れ、傷つき、激しく怒るのでした。
夢の中で湿っ地屋敷に走っていき、その恨みのタケをぶつけたものの、小窓に閉じ込められたマーニーの叫びは意外なもの。
杏奈!大好きな杏奈!
マーニーは「杏奈を置いてきぼりにするつもりはなかったのだ」と許しを乞います。
もちろんよ、許してあげる!
マーニー、ずっとあなたのこと忘れないわ!
杏奈が「許してあげる!」と叫んだことの意味は壮大です。
彼女はその瞬間、周囲にいる全ての人ーー里親、両親、クラスメート、教師…そして自分の運命をも許して受け入れることができたのでしょう!
河合隼雄氏は「別れ」のについてこのように語っておられます。
別れることは淋しい。
しかし、十分な体験を伴う別れは、新しい出会いをアレンジするものだ。
実際に杏奈は、迎えに来た里親をこれまでの「おばちゃん」から「母」と呼べるようになり、湿っ地屋敷の同年代少女さやかとも友情が芽生え、「ふとっちょブタ」と罵声を浴びせた信子にも「あのときはごめんなさい」としっかり謝ってこの地を去ることができました。
杏奈とマーニーは、エンディングで手を振りあったことが永遠の別れだと思われます。
しかし杏奈の心には「永久に忘れない」と言葉で交わした約束通り、たましい領域の片われのマーニーがずっと心に住み続けたはずです。
杏奈は、人間を1個のトータルな存在たらしめている、心と体を繋ぐ第3の領域「たましい」が癒されたことで、外界との接続・表現がようやく叶ったんですね。
「魔女の宅急便」と「思い出のマーニー」の意外な共通点
宮崎駿監督作品「魔女の宅急便」と「思い出のマーニー」、この2つの映画は関係なさそうで実は似たような題材を扱っているところがあるんですよね。
「魔女の宅急便」の黒猫ジジは、キキと会話できていたのに、途中から言葉をしゃべらなくなりました。
キキが成長してもう1度空を飛び、トンボを救ってもなお、ラストジジが「ニャーオ」としか鳴かなかったのを疑問に思った方も多いのでは…?
この点について鈴木敏夫プロデューサーは、
僕はあの映画を「キキとジジの対話の物語」じゃないかと思っているんです。
つまり自分との対話。
自分が自分になれば、もうジジは話さなくなる。
と言っています。
ジジが話せなくなったのは、キキ自身の成長によって話す必要がなくなったということ。
この話、なんだかキキとジジは、杏奈とマーニーの関係に似ていると思いませんか?
両者とも年齢は思春期の設定ですしね。
1989年「魔女の宅急便」から時代を超えて、2014年米林監督による「思い出のマーニー」にも、このように「自己確立の期間の中で、たましいの相手との対話」という意外な共通点があったんです。
4.「思い出のマーニー」をオススメしたい人
画像出典:https://prcm.jp/
このように奥が深い「思い出のマーニー」。
杏奈と年頃の若い世代でなく、いつまでも成人になるための努力をし続けなければいけない大人にも見ていただきたい映画です。
「なーんだ幽霊だったんだ!」なんて早合点な解釈をせず、背後にある深淵なストーリーにまでぜひぜひ入っていただきたいと思います。
テレビで絶対に観てほしい!思春期の人
杏奈と同年代の思春期の人にはオススメです。
相手が幻想のブロンド金持ち少女なので、イメージ的には少し私たちの日常から離れてしまうかもしれません。
思春期はそれまで親から与えられた仮の世界観を1度壊して、その上に母屋を建て直すという大きな成長の時期です。
個人的に言えば私の思春期は最悪でしたw
母屋を建てようと思ったんですけど、いかんせん子離れできない母に翻弄された時間が長く(心配性っぷりは杏奈の里親に似てるw)その中をかいくぐって建て上げるのは大変だったな~と思います。
多かれ少なかれ「ブレ」を経験しながら新しい世界観を作り、肉親を含め周囲の人間との絆をより深めていくのが思春期。
ぜひ原作本を読んで考えることもオススメしたいですが、手っ取り早く映画で杏奈とマーニーの交流から「切り開く」ということを学んでいただきたいと思います。
自分は「外側の人間」と聞いてピンとくる人
冒頭の杏奈のナレーション「自分は外側の人間」と聞いてピンとくる人にはオススメです。
主題歌のYoutubeのコメント欄に気になる投稿がありました。
こんなにたくさんのひとが「外側に1人でいる」と思っている世界で、いったい誰が「まんなか」にいるのかな。
といった内容だったかな。
確かに私も正直に言えば、あまり自分を内側の人間とは意識しないですね(←特にママ友関連w)。
かといって外側にい続けるかというとそうでもなく、コミュニティ別に往来の仕方を柔軟に変えられるのは大人になった証拠かなぁ。
杏奈の場合、この「内側」「外側」問題をどう解決したのでしょうか?
そこのところは映画では語られませんが、原作では語られます。
杏奈はマーニーを知るにつれて共通点を見出して、「一見恵まれているように見える人も『外側』にいると感じているんだ」と考えます。
そして結局、自分や人が内側になるか外側になるかは「感じ方次第」なのだと…。
外側にいることの不便さは、内側の本質を見抜けなくなるということです。
つまり、外側にいたら、やたら内側は幸せに見えてやっかみさえ生まれてくるかもしれませんが、内側に見える人も案外同じようにくだらないことにクヨクヨ悩んでいるものですよね。
壁を作ることはすなわち、あなたから「フィルター」という色眼鏡を作ってしまう行為でもあるんですね。
別れを経験して次のステップに進みたい人
今現在大切な人との別れを経験している、経験したという人にはオススメです。
マーニーのレビューを書くにあたり、私は生まれて初めて河合隼雄の本をちゃんと読みました。
高校の時、悩んでいたころ学校の図書室にあった彼の代表作「こころの処方箋」を読んで何の慰めにもならなかったことがトラウマとなりw、その後長く敬遠していたのですが、河合隼雄はユング派分析医だけあり、起こりうる出来事には両側面の意味があることや、人生を包括的に意味を捉える視点は、マーニーを飛び越えてとても助けになった気がします。
中でも「十分な体験を伴う別れの後は、新しい出会いのアレンジが待っているということ」という言葉は刺さりましたね。
人がたましいで誰かと交流する機会は、人生で数人はいるものでしょう。
正直言って今私はそのたましいの交流をした(と自分は思っている)人との別れの真っ最中で、これまで20年近く慕ってきた恩師との別れが近づいてきています。
ただ、マーニーと河合隼雄の作品を読んでいると、既に私はその人とたましいの交流作業をほぼ終えたと自覚できましたし、自分の中にその人の人格がしっかり統合されていると気づいて逆に嬉しく、またありがたくも思いました。
逆に次のステップに踏み出さなければ、私はいつまでもその人のたましいに依存する状態が続いてしまう…ならば勇気を出して「出会いのアレンジ」に進むべきなのだと教えられました。
河合隼雄は続けてそんな出会いを「巡り合わせ」と言っており、杏奈もマーニーが消えた後に、里親、さやか、ひさこさん、トイチたちとかけがえのない新たな現実的友情が芽生えました。
これぞ成人通過儀礼の極意…やはりそこには杏奈が喘息を患って命を懸けるだけの価値はありましたね。
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