エンタメブリッジライターしおりです。
今回私がご紹介する映画は、Netflix限定配信「ネバーランドにさよならを」(原題:Leaving Neverland)。
アメリカでは2019年3月にテレビ放映されたドキュメンタリー映画であり、内容は「キング・オブ・ポップ」の異名を持つ史上最強のスーパースター、マイケル・ジャクソンによって性的虐待を受けた2人の青年が過去から今に至るまでの回想や気持ちを淡々と語るもの。
マイケル・ジャクソンは2009年6月に50歳で死去したため、もうこの世にはいません。
マイケルは生前、児童虐待疑惑で度々訴訟が起こされ、騒動になっていたことは知っていました。
しかし私にとっては対岸の火事で、「まさかね」と関心を持ったことはありません。
マイケル亡き今100%の真偽はわからないけれど、この映画は「(おそらくこの映画に出ていない人も)性的虐待で今もなお多くの人が苦しんでいる」ということを改めて教えられた映画です。
それは相手がマイケルであってもなくても、です。
今回の記事は「彼らの証言は真実である」ということを前提に書きます。
「ネバーランドにさよならを」にはオチがありません。
オチがないことが最大の学びなのです。
目次
1.「ネバーランドにさよならを」の作品紹介
予告編のちょうど1分頃に「Hello Wade, Today is your birthday.(やあウェイド、今日は誕生日だね)」とマイケル・ジャクソン本人が登場し、性的虐待を明らかにした青年の名前を呼びながらコメントしています。
とても穏やかで子供が驚くはずのない柔らかい声…あなたがもし7歳だったら、自分の名を呼ぶスーパースターのこの声を受け入れますか?
監督:ダン・リード(Dan Reed)
出演者:ウェイド・ロブソン(Wade Robson)、ジェームズ・セーフチャック(James Safechuck)、2人の母、兄、姉など。
配信:Netflix限定配信
2.「ネバーランドにさよならを」のあらすじ
画像出典:https://www.imdb.com/
初めに「ネバーランドにさよならを」のあらすじをご紹介します。
Netflixではシーズン1(前編)、シーズン2(後編)に分かれており、前編はどのようにマイケルと出会い虐待が始まっていったか。
後編はマイケル2度の訴訟、死をリアルタイムで経験した彼らが、どのように過去の性的虐待と向き合ってきたかに焦点が当たります。
「ネバーランドにさよならを」のあらすじ(ネタバレなし)
固定カメラに向かって淡々と話すのは、容姿端麗の青年2人。
1人はオーストラリア出身のウェイド・ロブソン。
もう1人はアメリカ、カリフォルニア州出身のジェームズ・セーフチャック。
2人はドキュメンタリー制作まで現実に接点があったわけではありません。
少年時代、マイケル・ジャクソン絡みで2回だけ顔を合わせたことがあるそうです。
そしてもう1つの重要な接点はーー少年時代マイケル・ジャクソンに性的虐待を受けていたこと。
ウェイドは7歳から、ジェームズは10歳からマイケル・ジャクソンから性的虐待を受け始めました。
マイケルは成功のピーク、誰もが会いたがった。
その偉大な彼が僕を気に入った。
彼らの感情は映画終盤でもなお複雑であり、「マイケルへの愛」と「虐待という搾取」に両極端に心が引き裂かれているように見受けられます。
彼らはマイケルと出会う人生と出会わない人生、どちらが幸せだったのか?
なぜ、虐待当事者であるマイケルを責めないのか?
私が持ったこの2つの質問のどちらも「性的虐待」という犯罪行為の本質を映し出しているように思いました。
彼らが長い間沈黙を守ってきた意味と、沈黙を破った理由は何なのか?
2人の回想と共に探っていきましょう。
「ネバーランドにさよならを」のあらすじ(ネタバレあり)
マイケル・ジャクソンは1993年、2003年の2度、児童虐待容疑で2人の児童から訴訟を起こされています。
ウェイドは2回とも、ジェームズは最初の1回だけ、マイケルの裁判の証言台に立ち「虐待は絶対になかった」と原告の少年の訴えを退けました。
マイケルの死後、最初に「本当は虐待を受けていた」と口火を斬ったのは、自分も同じエンターテイメント業界でダンサーとして働くようになったウェイド。
彼らはどのようにマイケルと出会い、どのように1対1の密室の性的虐待へ発展していったのか?
ウェイドとジェームズのケースに分けて見ていきましょう。
【ウェイド・ロブソンの証言】
画像出典:https://www.imdb.com/
1982年オーストラリア、ブリスベン生まれ。
両親はフルーツ会社を経営。
年の離れた兄、姉がおり、末っ子で、どちらかと言えばフットボールよりも読書や音楽など家で遊ぶことを好んだウェイド。
ウェイドを魅了したのは、当時アルバム「スリラー」で成功のピークに上り詰めていたマイケル・ジャクソンのPVメイキング映像でした。
マイケルのミュージックビデオから独学でダンスを学び、5歳ですでに才能を発揮したウェイド(そのダンスは本当にキレッキレ)。
折しもマイケルは世界ツアーでオーストラリアに来訪することになり、ウェイドは地元の百貨店主催の「優勝するとマイケルにコンサートで会える」というダンス大会で優勝したのです。
2人の証言者に共通するのは、マイケルはまず相手と家族ぐるみで仲良くなるということ。
憧れのマイケルに舞台裏で会ったウェイド親子、公演2日目には「ステージに上げてあげる」とマイケルとステージで共に踊ります。
転機が訪れたのは7歳、芸能スクールに通っていたウェイドは、家族同伴のスクール旅行でアメリカを訪れました。
「アメリカに来たら僕を探して」とコンサートでマイケルに言われていたことを覚えていた母親は、マイケルの秘書に連絡を取ることができ、母子共に有頂天でスタジオに呼ばれたのです。
4時間ほど一緒に過ごしただけ。
ここが異常だ。
毎日ビデオやポスターを見て知っている気がした。
ここからマイケルとの親密な関係が加速。
すっかりマイケルを信用した母も、ネバーランドでマイケルとウェイドが同じ部屋、同じベッドで寝ることを許可。
その初夜から性的虐待が始まりますが、7歳で純粋な魂を持ったウェイドは「誰でもすることなんだ、自然な流れなんだよ」とマイケルを信頼し、神のような存在だったマイケルを愛します。
「こんなオーストラリアの子供が憧れの人、メンター、神に会えた。任命された気分だったよ」
「僕は紛れもなくマイケルを愛していたし、彼もそう言ってた」
オーストラリアに帰国後も電話が続き、FAXが設置されてからは「愛してるよ」「一緒に世界を変えるんだ」と愛を囁く手紙が毎日のように届きます。
母も母でマイケルを息子のように寵愛。
一家は「アメリカに来たらウェイドのダンスのキャリアの全てを手配するよ」とマイケルの甘い誘いを信じ、ウェイドのダンサーのキャリアが花開くことを信じて父をオーストラリアに残してアメリカ移住を決意。
このころすっかりマイケルに心酔した母は、夫(ウェイドの父)との夫婦関係が悪化、ウェイドの父は躁鬱病を発症します。
目をキラキラさせて渡米したものの状況は一変、マイケルはウェイドにとって代わるマコーレー・カルキンという新たなお気に入りの男児を作っていたのです!
ウェイドは脇に追いやられた気分を味わいつつ、それでもマイケルと直接会うときは必ず性的虐待を受け、結果的にウェイドは14歳までの7年間マイケルに性的虐待を受けます。
自分たちがやっていることを知られたら、2人とも死ぬまで刑務所に入れられる。
マイケルの巧みな脅迫をウェイドは信じていました。
だからこそウェイドはマイケルが児童虐待で訴訟を起こされてもなお、それが真実と知りながら「マイケルを刑務所に行かせてはいけない」と秘密を守り抜き、かばう側へと回ってしまったのです。
オーストラリアに残してきた父は、ウェイドが20歳のころ躁鬱病の悪化で自殺してしまい、マイケルに惚れ込んで渡米した一家に暗い影を落とします。
【ジェームズ・セーフチャックの証言】
画像出典:https://www.imdb.com/
1978年アメリカ、カリフォルニア州生まれ。
父はゴミ処理業者経営、母は美容師。
両親は再婚で、父の連れ子の2人の兄姉がいたものの、年が離れていたためすぐに自立。
母の友人の紹介で芸能界子役の門を叩き、ペプシのCMでマイケルと出会います。
CM撮影終了後も、マイケルから自宅に招待されたジェームズ母子と、プライベートな付き合いが始まります。
僕はマイケルに会えて、他の人はただ憧れてる。
スターのレベルが半端じゃない。
自分は特別だと思えてくる。
ウェイドもジェームズも、マイケルの「スーパースター性」が仇となり、自分は選ばれし者だと思ったことが、マイケルの人間性を見えなくしています。
マイケルのほうも「自分は1人ぼっちだ、友達が欲しい」と言い、郊外にあるジェームズの自宅にプライベートでしょっちゅう遊びに来ていたという現実…。
ジェームズは10歳でBADの世界ツアーでマイケルに同行、そこで2人きりでホテルにこもるようになり「みんながやることだし、楽しいよ」ととうとう性的虐待が始まったのです。
「愛してる。君も僕が恋しいはずだ」
ジェームズもマイケルを愛しており、不快な思いはせず、むしろ絆が深まったと感じたとか。
しかしウェイドのケースと同じように、
誰かに見つかったら、僕と君の人生は破滅する。
と脅しもかけられるのです。
同行していた母親は「マイケルの近くのスウィートは予約できなかった」とだんだん部屋を遠ざけられていきました。
ネバーランド建設後、初めてのゲストとなったジェームズ母子。
このことで両親は不仲となり、電話でよく夫婦喧嘩をしていたらしい父と母。
君の母さんは意地悪だ。
女は邪悪なものだ。
と洗脳を受けつつ、14歳頃までマイケルの性的虐待は続きます。
その間、マイケルと疑似結婚式を行い「永遠に結ばれた」とゴールドにダイヤモンドが散りばめられた宝石までプレゼントされました。
ジェームズが体を差し出すたび、買われる高価な宝石…ジェームズは大人になった今でもその宝石を触ると手が震えます。
が、『なぜ捨てずにとっている…?』ということもまたジェームズの複雑な心象を表す不思議な現象ですね。
ジェームズ一家はマイケルに家を買ってもらい、「君はスピルバーグになれる」とジェームズが興味のあった映画制作費用まで支払われていました。
しかしウェイドとの違いは、マイケルの少年虐待の共通項「ヒゲが生えてきたら捨てられる」を経験するのです。
ジェームズが高校生になる頃にはマイケルのジェームズへの関心が急に薄れ、「捨てられた」と感じた親子は路頭に迷うハメになります。
【2人の転機① 結婚と出産】
2人に共通する転機は、全く正反対の明るく社交的な生涯の伴侶と出会い、子供、しかも男児が産まれたことでした。
ウェイドはダンサーとして、ジェームズは芸術学校を卒業した後会社経営者として独立・成功しますが、マイケルからの虐待は口をつぐんだまま。
2人とも息子の成長していくにつれ、子供がどれほど純粋な魂の持主かということ、マイケルはそんな子供の自分にひどいことをしたのだということ…こうした恐ろしいイメージがリアリティを持ってありありと迫ってくるようになります。
2人も仕事に没頭しましたが、きまって重い無力感、憂鬱、自分への嫌悪感、原因不明の不安に襲われるようになります。
2003年、ウェイドが22歳、ジェームズが25歳の頃再びマイケルは児童から訴訟を起こされます。
「彼らは邪悪だ、証言してほしい」とマイケル直々に頼まれたもののジェームズは「関わりたくない」と拒否。
ウェイドも「証言したくない」と拒むものの、「真実が明るみに出たら妻、家族、自分のいるエンターテインメント界に知られて人生が終わる」と恐怖心が勝ってしまい、最終的に証言台に上がり「マイケルの虐待はなかった」と嘘の証言をします。
しかし、ウェイドは嘘によって自分の人生が成り立っていること、原告少年がせっかく苦しみを訴えているのに誰も守ってあげられない罪責感に押し潰されていきます。
【2人の転機② マイケルの死】
画像出典:https://www.imdb.com/
2006年マイケル・ジャクソンは死亡。
ウェイド一家は家族で葬儀に参列し、メンターと慕っていたウェイドは泣き崩れました。
その後、ウェイドは原因不明の突然襲い掛かる怒り、悲しみ、不安、無気力にさらに苦しむこととなり、仕事から逃げ出してセラピーへ通うことにします。
ウェイドはセラピーで人生を振り返るプロセスの中でとうとう、
マイケル・ジャクソンから7歳から14歳まで性的虐待を受けていた。
と告白します。
セラピストに打ち明けた直後に、妻、兄、姉、母にも順に告白したそうで、家族に打ち明けたシーンを回想するウェイドは映画内で最も涙を流しました。
家族の中で矢面に立たされたのは母です。
なぜマイケルにハマリ込んで、アメリカに移住までして、ウェイドが2人でマイケルと寝ることを許したのか?
この映画にはウェイドやジェームズの母や兄姉の証言もたくさん出てくるのですが、特に兄はそこに激しく怒りを感じているようですね。
2013年、ウェイドは「真実の上に成り立つ人生を歩みたい」とTV出演でマイケルの虐待を告白し、亡くなったマイケルを相手取り訴訟も起こします。
もちろんそれは大衆、とくにマイケルファンには大バッシングをされることになり、法律上真偽を明らかにするには民事訴訟、つまり金目当てと思われてしまうことは避けられなかったのですが、ウェイドには裁判で「嘘で塗られた人生や歴史の中を歩むのではなく、真実を明るみに出して真実の人生を歩む」ことに意義があったのです。
大人になりウェイドと面識のなかったジェームズですが、ウェイドの訴訟にまつわるTV出演を観て「同じ時期に同じ境遇だった人がいたのだ」とついに妻に虐待を告白。
この映画はオチがありません。
ジェームズは、
マイケルにはいろんな面がある。
歌で愛を届けつつ、不健全なことをしてた。
マイケルへの愛は消えない。
2つの気持ちの折り合いが難しい。
ウェイドは、
マイケルは僕が知る人の中で最も親切で愛情に満ちた人だ。
キャリア、創造性、あらゆる面で助力してくれた。
そして性的虐待も…。
原題が「Leaving Neverland」と過去形「left」ではない「leaving」という現在進行形が使われているのも、「今まさに去っている、置いている」という虐待犠牲者となった彼らの真実な気持ちがうかがい知れますね。
3.「ネバーランドにさよならを」の見どころ
画像出典:https://www.imdb.com/
続いて「ネバーランドにさよならを」の見どころをご紹介します。
マイケル・ジャクソンの裁判や判決の真偽についてはここでは議論しません。
あくまで、スーパースターという特異な存在から、弱者の立場で性的虐待を受けた2人の複雑な心象に着目していきたいと思います。
児童虐待が起こる仕組み
この映画はある面で「性的虐待の起こるプロセス」を非常に上手く描き出しています。
実際「ネバーランドにさよならを」はアメリカで児童性的虐待被害者約100人(男女含む)を招待したシンポジウムで上映されました。
上映後、ウェイド、ジェームズ、ダン・リード監督の3人と女性司会者によるディスカッションがありましたが、虐待の話になると彼らが頻発して使うのが「groom」という英単語です。
私は単語の意味を知らなかったので英和辞書で調べてみると「groom=教育する、訓練する」という動詞。
つまり、性的虐待の起こるプロセスの初めには必ず「子供を教育させること」があるというのです。
ウェイドやジェームズも「愛」と「虐待という搾取」を切り分けて考えられなかった理由は、「grooming(訓練)」のプロセスがあったからなのです。
ウェイドとジェームズに共通して起こった児童性的虐待のプロセスを見てみましょう。
①最初に家族を抱きこんで「安心」させる。
ウェイドもジェームズも、マイケルとは家族ぐるみの付き合いから始まっています。
母もマイケルを「息子」として寵愛したのです。
子供であれば「お母さんと一緒なんだから安心」と信じ込んでしまうのは当然といえば当然です。
②「愛している」「神様に結びあわされた」「これは自然なことだ」などと何度も伝えられる。
「愛している」と言われることは人間にとって最も嬉しいことですね。
ジェームズとマイケルのケースは、なんと疑似結婚式までしています。
性的虐待は尊敬する人、愛する人から受けることが何も珍しいことではないと、この映画からわかります。
アメリカでは聖職者の児童虐待が以前から社会問題化していますし、折しもボーイスカウト連盟での性的虐待が問題となっていますね。
③「淋しい」と言って、相手の「守ってあげたい」願望をかき立てる。
ウェイドがオーストラリアに帰るとき、マイケルは「君が帰ってしまうのが淋しい」と部屋の隅で子供のように泣いていたと言います。
ジェームズ宅にも「僕は1人ぼっちだ、寂しい」とスーパースターのギャップ、裏の姿を見せるようなことを何度も言っていました。
マイケルがこれらを虐待という目的を見据えて意図的にやっていたかはわかりません。
しかし、被虐待児の心に「マイケルを守ってあげられる自分は特別な存在なんだ」という気持ちが芽生えてくるのは事実です。
④「これがバレたら2人の関係は終わる、刑務所に行く」と脅迫される。
性的虐待が明るみに出ない理由は、「口外することは絶対に許さない」という脅迫を子供が信じ込み、誰にも相談できないことも大きいでしょう。
以前、大阪2児餓死事件を題材にした映画「子宮に沈める」のレビューで虐待の種類別件数のグラフを貼っています(身体的虐待、精神的虐待、育児放棄、性的虐待の4種別)。
性的虐待は圧倒的に少ないパーセンテージですが、本当にそうなのか?と考えるべき視点を本作で改めて考えさせられました。
ウェイドもジェームズも「マイケルに不適切なことはされなかった?」と家族に何度も何度も尋ねられながらも「NO!(ないよ!)」と語気を強めて否定し続けました。
中でも私が印象的だったのは、性的虐待において「僕は怪しい人間じゃないよ」と大人が子供に訓練する期間について、ウェイドが「マイケルの場合は、出会うよりもはるか前からすでに始まっている」と言っていたことです。
マイケルは絶大な権力で自分を天使のように見せている。
「僕には子供時代がなかったからこそ、僕は子供たちを愛する。
子供たちが素晴らしい子供時代を送れるよう助けたい」ってね。
僕も僕の家族もマイケルに実際に出会う前から、そういう彼に囲い込まれていたんだ。
ウェイドのTV出演で「虐待」を認識したジェームズ
「いつの時点で虐待と気づいたか?」という上映会での司会者の質問に、ジェームズは、
ウェイドがテレビ出演で「虐待を告白したとき」だ。
と答えました。
これには私も驚きました。
ウェイドがテレビで虐待を告白したのは2013年のこと、つまりジェームズはすでに30代半ばに差し掛かったころです。
この年代になるまで虐待のことは隠していたのはもちろん、「マイケルからされたことは虐待だった」と認識できなかったのです。
それもすんなり「自分は虐待されたのだ」という事実を受け入れられたのではありません。
ウェイドの告白を見たとき最初に襲われたのは、体が震えあがるような身体的パニック。
なぜなら少年時代にマイケルから「この行為がバレたら刑務所行きだ、人生が終わる」と何年も、何度も何度も繰り返し聞かされていたからです。
映画の中でジェームズは「マイケルよりも『自分が悪い』と思ってしまう」と繰り返し言っていたのが印象的でしたし、性的虐待の上映シンポジウムでも「ここで虐待を話したら、マイケルを落胆させてしまうのでは?」と今もなおマイケルをかばう気持ちがあるのも事実なんです。
これは何も性的虐待のサバイバーだけに起こる心理現象であはりません。
例えば何年も前から日本で顕在化している「毒親問題」も権力ある者からの洗脳の一形態であり、その親に育てられた子供は「自分が悪い」と必ずと言っていいほど思って育ちます。
「親が悪い」と気づくのはほとんどが成人して生き辛さを感じ始めてからで、そこから陥りがちなのは「親が悪い⇔自分が悪い」の間を0か100かの両極端に揺れ動いてもがき苦しむこと。
この映画に「オチがない」のと思えるのは良いことなんですね。
2人はまだまだ「マイケルへの愛」「マイケルが許せない」の2つの相反する感情がぶつかりあっている途上だからです。
少なくとも彼ら2人にとって、人間としてのゴールはマイケルを憎むことでは決してありません。
こうした相容れない2つ感情があることを認め、「マイケルにはこういう面がある」「自分にはこういう面がある」とニュートラルに共存させていくことがゴールでしょう。
そのために2人ともが「残りの人生をかけて取り組む」と固く決意をしていることには感服します。
秘密は人をむしばむ
画像出典:https://www.imdb.com/
A man is only as sick as his secrets.(秘密は人をむしばむ)
このセリフは、アメリカの大ヒットドラマ「デスパレートな妻たち」で薬物依存になったマイクの入所したリハビリ施設に貼ってあるポスターの言葉。
「ネバーランドにさよならを」では、日本語字幕で全く同じになるセリフをジェームズの母が言います。
Secrets kill you.(秘密は人をむしばむ)
ウェイドが成人してから性的虐待を告白しようと思った理由は「嘘の上に成り立っている人生に耐えられなくなったから」です。
ウェイドが嘘をつき続けている以上、ウェイド自身の人生は嘘で成り立つもので、そうなればウェイドの妻、母、兄、姉、祖父母の人生も「マイケルからウェイドに虐待はなかった」という嘘の上に成立していることになります。
ウェイドがセラピーを経たある日、これまでの主張をすべてひっくり返して家族に虐待を告白しました。
ウェイドの妻は「虐待の告白は爆弾のようだった」と言っており、家族の怒りの矛先は「2人でベッドに寝るのを許した母が悪い」と母親が矢面に立たされることになります。
そこから確かにいったんは家族関係はバラバラになってしまったようです。
ではあのまま秘密を持ち得て生きていたら、ウェイドはどうなっていたか…。
ちょっと想像を巡らしましたが、おそらくどうにもならなかったのではないか…?、つまり、ウェイドの人生はどこかの段階で完全にSTOPするのではないかという気はしますね。
それを踏まえた上で皆さんに考えていただきたいのは、「誰か1人が犠牲になっている上で成り立つ大多数の平穏な人生」と、「全員が同じ課題に死ぬほど苦労して、取り組んで償い合っていく人生」どちらを選択できるか?ということです。
いじめやいびりの構造だってここから成り立ちます。
社会学者の加藤諦三氏は「不健全な集団は誰か1人を犠牲にした上に成り立つ」と言っていますが、これこそウェイドやジェームズの家族が経験したことなのです。
良くも悪くも虐待告白でこのことに気づいたウェイドら家族は、たとえその爆弾に圧倒的な破壊力があっても、ようやく1人も犠牲にしない真実の集団を作ろうとする取り組みを始めます。
私たちは誰か1人の犠牲者を作ってはいけませんし、自分が犠牲者になってもいけません。
1人を犠牲にして甘い蜜を吸っていると、結局は回りまわって自分にも悲劇を招くことをしっかり胸にとどめるべきです。
「社会適応」と「本当の自分」の対決
画像出典:https://www.imdb.com/
「社会適応」という目標を第一に掲げると、私たちはでっちあげた人生をどうしても作りがちですね。
例えば、同じくNetflixで「クィア・アイ」という5人組のゲイが「人生改造」を望む人たちを訪れ、「その人らしくあるように」と服装、髪型、メイク、料理、マインド、部屋の内装まで変えるという泣いて笑ってじーんとくるドキュメンタリードラマがありますが、この一見パリピなゲイ5人組がなんら挫折のない人生を歩んできたかというと真逆です。
5人の共通項としてあるのは「ゲイであることのカミングアウトは一世一代の出来事だった」ということ。
ジェームズが大人になってから毎夜の緊張と不眠にさいなまれていたのは、
「実はこの秘密を誰かに打ち明けたかった」
「この秘密を持った自分として誰かと繋がりたい…」
と恐怖と同等に知ってもらいたい願望が沸点に達したからではないでしょうか。
「一世一代の秘密」は誰しも1つは持っているものです。
一世一代の秘密とは、言い方を変えれば「あなたが出生以来1番考えてきた事柄」です。
それってまた言い方を変えれば「非常に良いあなただけのネタ」なんですよ。
なぜなら人は、あなたの「社会適応力」なぞに興味がないからです。
人が最も興味をそそられ、しかも自分の利益になるものと考えるのは「その人が経験したその人固有の体験」です。
ウェイドが今、「サバイバー(虐待からの生還者)」として虐待支援団体に関わるなど新たな使命を獲得して歩みを進めていることは、一世一代の秘密が世に出ることでポジティブに宙返りした素晴らしい例ではないでしょうか。
「許し」とは線を超えることではなく道である
1.あなたは「母親」を許しているか?
2.あなたは「マイケル・ジャクソン」を許しているか?
3.あなたは「自分自身」を許しているか?
これらは映画の中では語られません。
しかし映画を観終えた方は、この3点はおそらく最も気になることだと思います。
先ほどの上映シンポジウムでは、司会者からウェイド、ジェームズに実際にこの3つの質問がされました。
ジェームズは3つとも「まだ途上にある」、ウェイドは「自分自身は許せている」の質問にだけ「YES」と答えました。
ジェームズは言うのです。
許しは「1本の線」を超えることではない。
許しとは「自分が歩んでいく道のり」のことだ。
ジェームズは映画の中で「時間は解決すると言うが、ひどくなるばかりだ」と語る場面があります。
正直私はジェームズのほうがウェイドより「回復が遅いなぁ」と最初は見て取っていたんですね。
しかし、後になってみればそれは私の「許す/許さない」の線引き的な見方でしかないと、自分のことを浅はかだなぁと思いました。
ジェームズはもはや決意とか意志の力ということを超越し、加害者に対して「焦らない、慌てない」という覚悟を一生背負っているのです。
許しとは高度な感情と言われます。
とはいえ「『許せない自分』が許せない」というあるがままの状態を公に晒すことも並大抵の強さではありませんし、「人生はそんな時期も必要だ」と覚悟していることは、彼らの強みであり柔軟性でしょう。
「許し」ということを考えるとき、「許せてないから劣っている」と短絡的に考えるのではなく、むしろ彼らの取り組みにみる「許しとの向き合い方」を学ぶべきです。
「極限」を経験したからこそ変わることができた2人
ウェイド、ジェームズ双方に男児が生まれてきたというのは、ある種の宿命のような気がします。
意地悪な宿題のようですが、「それをもって課題を解決せよ」という神の意志のようですね。
そんな私も実母との確執が大きかったため、妊娠したとき『頼むから男児を身籠らせてくれ!!』と祈っていたのですが、妊娠5か月で女児だと知らされたときは正直ゾッとしました。。
「ちゃんと育てられるのか?」「あの母娘のグッタリした確執をもう1度やらねばならないのか?」というプレッシャーと不安と恐怖です…。
男児なら異質な生き物としてなんとなく「かわいい」ですませられることも多いと周囲を見て感じますが、女児だと同性…生まれてくる子に自分や母の影が出てこないわけがないんです。
そして予想通り、産後3年間はナーバスになりすぎて死ぬかと思いました(←私がな)。
ウェイドとジェームズ同様、子供を通して「自分にあった課題」をもう考え直す機会が次から次へと降ってわいて来るんですね。
たぶんこれは子供が成人するまで続いていくことでしょうが、ナーバス急性期の3年間を脱した今、やはり身籠ったのは女児で良かったと思います。
私が娘に「幼少期の私」を投影することもありますし、親の孫への接し方から「小さい頃には見えなかった親の私への想いや考え」を知ることもあります。
それはときに、すさまじく感動的なこともありますね。
いいことも悪いこともひっくるめて、私に残っていた課題を1歩ずつクリアできているのは、これはもうかなりの確率で娘から跳ね返ってきていることだと思います。
「条件反射」の研究で有名な生理学者パブロフはこう言っています。
人は極限状態に追い詰められたとき、振舞い方が180度変わるきっかけになる。
ウェイドやジェームズは出産は喜ばしいものだったと語りながら、「男児の存在」は脅威であり、それが父となった彼らに大きな気づきを与えたことは間違いありません。
子供が成長するにつれて、マイケルと自分に起きたことがイメージできた。
彼らは我が子が自分が虐待を受けた年に近づくにつれ、ゾッとしながらもようやく自分が「虐待被害者である」と気づき、「マイケルの愛」と「虐待という搾取」をようやく切り分けて考えることができたのです。
女児であったらこの問題は延び延びになっていたかもしれないと思うと、「極限の体験」にはどんな可能性が詰まっているかわからないとも考えられる発言です。
4.「ネバーランドにさよならを」をオススメしたい人
画像出典:https://www.imdb.com/
「ネバーランドにさよならを」はマイケル・ジャクソンと性的虐待がテーマです。
しかしその背後には「人間の自立と依存」という様々な人間関係に応用できる普及のカラクリが潜んでいます。
次のような方にオススメしたいと思います。
児童虐待のステレオタイプを知りたい人
性的虐待に関わっている人、関わっていない人、どちらにせよ性的虐待のステレオタイプが知りたい方にはオススメです。
「ネバーランドにさよならを」は虐待による魔の手が忍び寄るにはどのような手順をたどるのか?それを家族や当事者はどう捉えていくのか?が事細かに語られます。
今や性的虐待被害児童の4人に1人は女児、6人に1人は男児という時代。
映画の上映シンポジウムでは、子供のころ警察官に虐待された男性がインタビューに答えています。
加害者の警察官はいつも近所にいる、町中の誰もが知っている人だった。
子供には銃を持ったヒーローみたいな人だ。
家族も気さくに挨拶を交わしていた。
つまり子供心にその加害者はものすごく「信頼に足る人」だったのです。
「ネバーランドにさよならを」で考えさせられたのは、大人の性被害と児童性的虐待はものすごく異質なのだということ。
日本だと身体的な虐待にばかり目が行きがちですが、無垢な魂を蹂躙する大人のずる賢さに、今まさに傷ついている子供たちが町中にいるという意識をいつも私たちは持っているべきでしょう。
毒親の洗脳下で闘っている人
毒親の洗脳下で闘っている人にはオススメです。
ウェイドが11歳、22歳のときマイケルは2回、それぞれ違う児童から性的虐待で訴訟を起こされています。
ウェイドが2回とも証言台に立って「虐待はなかった」と証言したのは、マイケルからの洗脳を脱却できていなかったからだと語ります(さすがに22歳のときは良心の呵責に苦しみます)。
絶対的な存在の1度洗脳下に置かれた後、そこを脱却して生きることの難しさをまざまざと見せつけられますが、毒親の支配下で生きている人もまた、洗脳下で生きていると言っても過言ではないでしょう。
「ネバーランドにさよならを」の最後の4分の1が「洗脳からの脱却」に割かれます。
このドキュメンタリー撮影のインタビューは「3日で9時間」という非常に凝縮した時間内に行われたそう。
ウェイドは後にこう語ります。
セラピーともまた違う、人生のあらゆる出来事を紡ぎ合わせていく特別な時間だった。
父親、マイケル…色んな記憶が呼び起こされたり、繋がったりした。
洗脳からの脱却に記憶の整理はつきもので、彼らの場合は窮地が転じて「作為的な洗脳」から「自発的な改心」が呼び起こされました。
このプロセスを見つめることは、きっと今まさに力ある者の洗脳と脱却に苦しんでいる人には救いとなるでしょう。
子供を持つ親
本作は決して見て気持ちのいいものではないのですが、子供を持つ親には1度観ていただきたいです。
つまりはこういうことなんです。
もし今私が、家族ぐるみでマライア・キャリーやビヨンセといった世界的スーパースターから遊ばないか?と言われたらついて行くかどうか。
母である私がそんなセレブからたくさんお金をもらって豪遊し、その中でもし娘が「マライアやビヨンセを2人きりになりたい」と言ったら、私は許すか?
正直私には「No」と言える自信なぞこっぱみじんにありません…(泣)。
というかホイホイと子供を差し置いて、自らアグレッシブにセレブに取り入る自分が想像できますね…。
これはひとえに権力と名声にひれ伏す弱さ、日ごろのメディアからの洗脳もあります。
ウェイドやジェームズは声を上げたものの、この世では圧倒的大多数でマイケルのファンが多いし、「ネバーランドにさよならを」公開後はウェイドはマイケルの3つのファン団体から「価値を貶めた」と訴訟を起こされました。
マイケル代理人事務所からも「事実無根」と言われ、先ほどの上映シンポジウム前日にはウェイドのもとに匿名の殺害予告まで届いていたと言います。
私も含めてそうなのですが、マイケルの二面性があった可能性を見るのはものすごく難しいんです。
それは彼がスーパースターゆえであり、会えるもんなら会いたい人気者、音楽シーンのかっこよさを日ごろから見てきたからです。
子供を持つ親であれば、自分の子供が「100%性的虐待を受けていないとは言えない」という目線を持つべきですし、子供を守る義務としてこの映画はやはり見てほしいと思います。
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