あの大杉蓮が死刑を問う遺作!映画「教誨師」の真価とレビュー【あらすじネタバレ】

教誨師 フライヤー

  • 「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」親鸞/浄土真宗
  • 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」イエス・キリスト/新約聖書

こんつわ、エンタメブリッジライターで罪びとのしおりです・・・。

Tsutaya movie最新作をコロコロとスクロールしていたところ、吸い込まれるように目に入ってきた白壁にバーンと立ちはだかる大杉蓮さん。

昨年の今頃心不全で急死されたことは記憶に新しいですね。

その映画タイトルとは「教誨師」(きょうかいし)

クリックして映画の概要をフムフムと読んでいると、私は自分でも異様と思えるぐらいこの映画に関心を持ちました。

「教誨師」というのは、聖職者が刑務所や拘置所に通って服役囚・死刑囚の悔い改めや改心の心を養う活動のことです。

私がこの映画に興味を持ったのは、2018年7月にオウム真理教死刑囚13人の大量死刑執行が行われてから、いや「近々執行される」と噂されたその数年前から、人生で初めて「死刑制度とは何なのか?」と真剣に考えていたからです。

ちなみに私は法学部出身で、学生時代には「麻原に接見したことがある」という検事の授業まで受けました。

当時の私は今考えるとキケンなくらいに正義感(?)に満ち満ち溢れた「厳罰!厳罰!!厳罰やらいでかー!!!」の三段活用並みの思想で、日本の死刑制度も「ぽかーん」と口が開いたように何の疑問も持ったことがありません。

そんな私を見事に揺さぶったのが件のオウムの大量死刑執行と、彼らを取り巻く作家や法律家の活動だったのです。

ということで映画「教誨師」と私がピタリとハマった共通点はこの4つ。

  1. 法学部出身であること。
  2. 大杉蓮演じる佐伯牧師と同じプロテスタント(のはしくれ)であること。
  3. 私の通う教会の牧師さんが、過去に教誨師の仕事をしていたこと。
  4. 今現に私が、4人の服役囚と手紙で交流していること。

ちなみにこの映画が構想された理由は、大杉蓮さんのマネージャーのお父さんが教誨師だったからだそう。

これらの事象が1つ1つ巡り合い、ついには1本の地下水脈となって私とこの映画を引き合わせたのでした。

それも魔訶、不思議なことなり。ってことでレビューにうつります。

1.教誨師の作品紹介

公開日: 2018年10月6日 (日本)
監督: 佐向大
脚本: 佐向大
製作総指揮: 大杉蓮、狩野洋平、押田興将。
出演者:大杉蓮、ほか。
公式サイト:http://kyoukaishi-movie.com/

2.教誨師のあらすじ

教誨師 牧師
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

あらすじって言っても、2~3行で書けるぐらいシンプルです…。

映画は2時間弱で、そのうち9割くらいが、教誨室で佐伯牧師(大杉蓮)と死刑囚が対話するシーン。

それでも飽きないどころか惹きこまれていくのが、蓮さんとその他大勢の死刑囚の演技がリアルで怖いくらい臨場感があるからかも…!?

教誨師のあらすじ(ネタバレなし)

この映画は、死刑制度の是非を問うことではありません。

ただ、「近い将来絶対に死ぬ」という運命の年齢・性別・性格もさまざまな死刑囚の話を、大杉蓮演じる佐伯牧師が徹底して聞きに回ります。

「ええ」「そうですか」「それは大変でしたね」

と、聞き上手とはまさにこのことですね。

ときおり、助言を与えつつ悔い改めを促します。

ちなみ教誨師は完全ボランティアで、教誨をやったからといって一銭ももらえません。

死刑執行にも立ち会わなければいけない過酷な仕事なのに、刑務官と違って給料は出ません。

今、全国の少年院・刑務所・拘置所では2000人の教誨師が活動されていて、そのうち66%が仏教系、キリスト教系が14%、あとは神道などだそうです。

日本のクリスチャン人口は全人口の1%以下なのですが、このような施設でそれが14倍に膨れ上がっているのもまた不思議だな、なんて思いつつ…。

映画の中では6人の死刑囚のうち、1人の執行命令が下され、死刑執行されます。

それはいったい誰なのか…?

いざ刑場を目の前にした死刑囚と、執行に初めて立ち会う佐伯牧師の心情とは…?

教誨師のあらすじ(ネタバレあり)

教誨師 兄
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

どこの拘置所かはわかりませんが、死刑執行場のある拘置所で約半年間教誨師として働く佐伯牧師。

この世の中、刑場ほど隠されている極秘の場所はありませんね。

この映画のフライヤーには「死から考える生」と書かれていますが、私はむしろ教誨師と死刑囚全員が持つ「絶対的な孤独」と「かすかな心の交流」が本作のテーマなのでは?って思いました。

そんな佐伯牧師と月2回の教誨を行っているのは6人の死刑囚ですが、特にキャラが際立つのはこの3人です。(画像は全て公式フライヤーからとりました。)

  • 教誨師 おじいちゃん
  • 名前:進藤しょうじ
  • 印象:字が読めない、書けない。佐伯牧師とひらがなの練習をする。←ここ覚えててね!
    その知性の弱さで犯罪に巻き込まれてしまったが、好感の持てる元ホームレスのおじいちゃん。のち、キリスト教に導かれ洗礼を受ける。
  • 罪状:初犯は交通事故で子供を怪我させてしまったことだが、死刑になるほどの罪は不明。

 

  • 教誨師 おばさん
  • 名前:野口きょうこ
  • 印象:黒柳徹子と上沼恵美子を足して2で割ったような、よーしゃべる大阪のオバハン。でもその内容は空想だった。
  • 罪状:集団リンチの首謀者。

 

  • 教誨師 相模原
  • 名前:高宮しゅんじ
  • 印象:クソ生意気なガキ(失敬)。津久井やまゆり事件をデフォルメしている。
  • 罪状:「知能がない人間」への17人の大量殺人(津久井の場合は19人)。観てるこっちも胸クソ悪くなるくらいの挑発的な発言を繰り返すけれど、最後わずかに弱みを見せ、佐伯牧師と健常な交流ができた。

こんな濃すぎるキャラの死刑囚たちと対話する佐伯牧師にも、隠された闇がありました

母親が物心ついたときに浮気をして家を出ていき、新しい男と再婚してしまったため、佐伯少年と2歳年上の兄はおばあさんに育てられたのです。

ある日、佐伯少年と兄が川で遊んでいるとき、最悪なことに、河原でその再婚相手男性と子供に出くわしてしまいます。

その腹違いの子供にからかわれて喧嘩になったところ、今度は再婚相手の男と佐伯少年が揉み合いになったのですが、兄が助けに入って岩で頭を殴って男を殺してしまったのです。

そして兄は少年院に入ったのですが、出所間もない16歳の時自殺してしまいました。

自殺した理由は不明ですが、兄が幽霊?幻視?として教誨室に出てきたとき、

もうこんなことやめたらどーや?

と佐伯牧師に言っているので「生きるのをやめて楽になったと逃げの自殺だったことがうかがえますね…。

そんなとき佐伯牧師は、近々1人の死刑囚が執行されると聞かされます。

(誰?誰?誰なんだー!!)

とハラハラして見守っていたところ、刑場に連れてこられたのは、予想外にもあの津久井やまゆり事件をデフォルメした高宮しゅんじでした。

実は佐伯牧師、この直前に高宮と本音でぶつかり合って、心を通わせることに成功してるんです。

あのひねくれたクソガキ(再度失敬)と「メリークリスマス!」と言い合えるほどになっていたんです。

教誨師やっててこんなに嬉しいことってないでしょう!?・・・でも、死刑は執行されるんです。

執行場のシーンは、「息を飲む」というのはこのことか…と言った感じでものすごい緊迫感で迫りくるものがあります…ていうかコワイ。。

死を前にした高宮はぶるぶると怯え切って震えており、しゃべることもできず、佐伯牧師に抱きつこうとします。

が、刑務官に

やめろ!

と引き離されます。

やはり、「死は誰しも恐ろしいものなのだ」と実感させられるシーン。

人は死ぬ瞬間まで生きるのだと思わされるシーン。

佐伯牧師に「また人を見殺しにしてしまった」と思わせてしまうようなシーン。

しかし最後には希望があって、元ホームレスで教誨中に脳梗塞(?)にもなってしまったおじいちゃんが洗礼を受けます。

やっと希望が持てる!・・・って1度思わされるシーンですが、最後またひっくり返されます。

ひらがなが書けるようになったおじいちゃんがラスト、佐伯牧師に手渡した手紙にはこう書かれていました。

あなたがたのうち

だれがわたしに

つみがあると

せめうるのか

え・・・どーゆー意味?「俺には罪がねぇっ!」ってこと?

いやでも、おじいちゃんはそんな反抗的な人ではないし…。

私は自分がクリスチャンであることも相まって、「なぜよりによってこの聖句…?」とず~っと後味悪く引きずりましたね。

実はこの聖句、そんなに有名な箇所でもない(と個人的には思う)んですよね。

でもある日あるとき、私がある行動をとっていたとき、ズン!とのしかかってくるようにこの聖句の重みがわかったのでした。

この謎の聖句の意味も後でじっくり解説しますよー!

3.教誨師の見どころ

教誨師 おばさん
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

この映画は「行間を読む」というのがとっても大事です。

「死刑囚⇔佐伯牧師」の対話が、テンポよく「パス!」みたいになるキャッチボールのようにはいきません。

セリフが2~3行飛ばされる感じです。

そんなセリフの行間を読み解きつつ、極限に追い込まれた極端な生、国家に殺される特殊な死…その現実を目をそらさずに俯瞰する映画です。

日本の「教誨」は遅れてる?

法学部生は、六法の1つである刑法を1年生から学ぶわけですが、教授がまず私たちにこう呼びかけたことを思い出します。

諸君は、刑罰は何のためにあると思うかね?

ぬ!そんなこと考えたこともなかった私。

そもそも刑罰の存在意義は、学説上いくつかあります。

「更生のため」「社会への見せしめ」など(あとは忘れたw)。

でも、今現在服役している方が私に教えてくれる刑務所の環境、そして日本におけるこの再犯率の高さ(犯罪白書によると5年以内に38%)を思うと、刑務所が「更生のため」に機能しているとはとても思えませんね。

刑務所にはむしろ犯罪のプロがいるので、逆に犯罪スキルが上がったり、出所後いかに法に触れないグレーな犯罪行為で生計を立てるかシェアし合ったりすることが横行しているのだとか…。

今、日本の刑務所では集合教誨、個人教誨が行われています。

各刑務所によって頻度もやり方も異なり、知り合いの牧師さんのお話だと、個人教誨は半年に1回だったり、集合教誨も月1回1時間足らずだったりと、およそ積極的ではないそう。

刑務所によっては、受刑者が教誨にノートやペンを持ち込むことさえ厳しく、煩雑な手続きがあるんだそうです。

私なんか礼拝に出てメモ取ってもあの壮大な聖書の世界はさっぱりわからんっつのに、「そんなやり方で身になるのか?」と思ってしまいますが…。

教える方も教える方で、教誨師の持ち込み禁止物も多く、特にスマホが持込禁なのは辞書代わりですから苦労するそうです。

ちなみに教誨師に養成システムはなく、先輩からの誘いである日突然教誨師になり、各教派の「教誨師連盟」などから助言はもらえるものの、基本はOJT(On the Job Training)になるそうですよ…。

今の日本の教誨の実態は、受ける側も行う側も「更生」や「改心」という目的をあまり果たせていないのが現状ですねぇ。

一方外国では教誨はとても進んでいるそうで、「チャプレン」という専属の聖職が各刑務所にお、欧米などでは自由に受刑者と会えるそうです。

チャプレンは刑務所だけにいるのではなく、軍隊チャプレン、病院チャプレンなど色んな所に配置されていて、よく海外ドラマで刑務所や病院で

「ちょっと祈ってくる」

なんてシーンがありますが、そういった施設にそもそも礼拝堂がデンと構えられていることも珍しくないのです。

日本の刑務所は、演芸やスポーツなどの矯正教育は徐々に増えているそうですが、被害者や自分の心に直に影響を与える宗教矯正教育はだいぶ遅れていると言えますね。

なぜ「プロテスタント」なのか?

クリスチャンをやっていると、色んな質問を受けます。

夫はノンクリスチャンですけど、夫も未だに初歩的な質問をしてきますが王道なのはこんな感じ。

Q「神父と牧師ってどっちがどっち?」

A「カトリックが神父、プロテスタントが牧師」

Q「結婚できないのってどっちだっけ?」

A「神父」

Q「洗礼受けたら名前が変わるんでしょ?」

A「それはカトリック」

今回「大阪のオバハン」役で出ていた方は、佐伯牧師のことを「神父さ~ん」といつも呼びますが

「あの、僕は神父ではなく牧師です」

と佐伯牧師は言います(カトリックが神父で、プロテスタントが牧師なので)。

この映画でプロテスタント宗派を採用しているのってけっこうキモだと思うんですよ。

なぜならプロテスタントは「信ずる者は救われる」が全面に出る、冒頭の親鸞上人の「悪人正機説」と似ているからです。

プロテスタントの教理とは、私が牧師さんに教わった図をそのまま描くと

教誨師 プロテスタント

てな感じです。

私の叔母はカトリックだったのですが、私の印象では「救い」と「良い行い」の順番がちょっとだけ逆のようで、「良い行い」を行ってこその「救い」も少々あったように感じました(私はその叔母を尊敬しているので、別にカトリックを否定しているわけじゃないです)。

ちなみに新興宗教やカルトはその比じゃないほど、善行を積まねば救いに至ることができないタイプが多いでしょう。

こんな感じですかね。

教誨師 図

ということで、私のような罪びとこそ、悪人正機が必要なのですよ・・・嗚呼。

「あなたがたのうちだれがわたしに…」ラストの聖句の極意

教誨師 あなたがたのうち
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

さて、私がずっと謎だったラストのおじいちゃんからの手紙の聖句。

あなたがたのうち だれがわたしに つみがあると せめうるのか

考えれば考えるほどホントにわけわかめですわ。

この手紙を見た佐伯牧師の表情もまた、ピクリともせぬ無表情なので、余計わけわかめに拍車をかけるんですよね…。

聖書は時代とともに訳が変わるのですが、私の手元にある新改訳聖書では、

「あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。」

と書かれています。「いや、誰もいない!」という反語ですよね。

詳しく解説しますと、これは新約聖書の「ヨハネによる福音書8章46節」(もう覚えちゃったよ)に書いてあるイエス・キリストの言葉で、イエスが、イエス自身のことを語った言葉です。

神が神自身に向けて言った言葉だから、「罪がない」ってのは当然なわけですよ。

これが人間に向けた「あなたには罪がありませんよ」とかいうイエスの言葉ならまだわかるんだけど、なぜおじいちゃんが自分(か牧師)を神に見立て、この聖句を伝える必要があったのか・・・?

・・・う~ん、やっぱりわからん。

ちなみに、聖書的にはこの前後の箇所ほうがよっぽどドラマチックなんです。

1ページ前は「罪なき者よ石もて打て」で有名な、売春婦をイエスが全面的にかばう話。

そしてこの後は「神の永遠と普遍性」を断言するシーン。

なんでよりによってその間なんだよ、わけわかんねーよ・・・記事にならねーよ・・・みたいに過ごすこと半日(早)。

教誨師教誨師教誨師…と呪詛のごとく唱えながらポッと郵便受けをあけたところ、あらあらまーまーすごいタイミングで私が交流している受刑者の方から手紙が届いておりました。

この方とは、もう手紙を交換し合って1年くらいになりますが、この方は、私が交流する受刑者の中で初めて出所されていく方でした。

出所をしたら、この方の所属する教会がサポートするので、私との交流は終わりです。

「返事を書く→刑務所に届く→氏名の確認→検閲を通る→本人の手元に手渡される」という刑務所独特の長~いプロセスを考えると、これが最後の手紙になるってこと。

「もうすぐ出所かぁ、なんて書こうかなぁ・・・」と色々思いめぐらしつつ筆を進めました。

・桜が満開なこと。

・平成が終わって令和になること。

・10連休はお出かけしたいこと。

・元気でやってほしいこと。

・・・それから、出所してからの生活について、

「もう刑務所には入らないでください。」

と書いたとたん、私は「ハッ」と思ったのでした。

それは、私がはっきりと気づいたからです。自分が善人で、相手が悪人だと決めつけている貴賤意識に。

あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。

この聖句がまさに、私の眼前に迫ってきました。ドン!って。

私はこの交流が始まって以来、絶対に受刑者の方と「友人でいよう」と心に決めていました。

見かけや境遇、犯した罪で判断せず、ちゃんとその人自身の内面を見て、更生したい意思だけ尊重していこうと・・・。

でも、私は明確に線引きしていたのです。

「コイツと私は違う」って

それは、私が法を犯してないから。今のところ。ただそれだけで。

佐伯牧師も、きっと少しでも死刑囚の力になろうと対等な立場で教誨に臨んでいたはずです。

だけど、中盤からは死刑囚のしっちゃかめっちゃかな発言が訳がわからなくなり、『なんなんだよもう!』と心の声が聞こえてきそうなほど当惑していきます。

先ほどの聖句は、戒律だけ守ってメンツを保ち、「俺たちは偉いんだ!」と誇示することだけを考える偽善的な学者が、イエスをどうにかして殺そうと追い込んでいくシーンの一句です。

一見、天然ボケで頭が弱いと思えていたあのおじいちゃんだけが見抜いていたのかもしれません。

佐伯牧師にも「自分は人を殺していない」という自負があり、「お前たちとは違うぞ」という差別意識があったこと。

外国でチャプレンをしていた、私の教会の牧師の先生の言葉を思い出します。

あなたは囚人より偉いなんて思ってはいけませんよ。

もしあなたが目の前にいる囚人と同じ環境で育ったなら、もっと悪いことをしたかもしれません。

彼らは、法律的には死刑にされていきました。

しかし、キリストの世界では彼らは天国にいます。

私たちは、犯罪者より偉いのでしょうか?

その理由はなぜ?

自分をコントロールできるから?

では、犯罪者を差別する気持ちはいいの?目くそ鼻くそじゃなくて?

南青山に建設される児童養護施設の反対運動はなんだった・・・?

公民権運動でノーベル平和賞を受賞したマーチン・ルーサー・キング牧師はこう言っています。

人生の大きな悲劇の1つは、行うことと言うことの間の溝を、滅多に超えられないことだ。

一方では誇らしげに、荘厳で気高い心情を告白する。

しかし他方で、我々は、悲しいかな、これらの心情と正反対のことを実践するのだ。

犯罪というのは、最後大阪のオバハンが花粉症になぞらえて言ったように

「ある日突然なるんや、何の前触れもなしに。気がついたときはもう手遅れや。」

というほど誰しもが共通に持っている性質なのかもしれません。

あの聖句は、おじいちゃんから佐伯牧師への警告だったのです――俺たちだけをそんな目で見るな」と。

この歳になりしみじみ実感しますが、殺人事件が毎日毎日何十年も日本のどこかで起きているということは、人は人を殺してしまう生き物なんですよ…。

軽い犯罪ならなおのこと、ね。

教誨室では、死刑囚と教誨師は、常に1つの机で隔てられています。

その隔たりは「死刑になる側」と「生きる側」ですが、その境界とは実に曖昧で、紙一重なのかもしれません。

もう1つの悪魔のささやき

教誨師 洗礼
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

先ほどの「あなたがたのうち」の聖書の言葉。

私は、この聖句がラストで使われたのにはもう1つ意味があると思うんです。

それは佐伯牧師への「励まし」です。あそこまで言っておいて意外かな!?

イエスはこの聖句の数行前で「悪魔の子供にならないように」と警告しているんですね。悪魔ってまたすごい表現だけどさ。

悪魔というのはキリスト教特有の概念ですが、キリスト教では「悪魔=神と対極にあるもの、人を神から引き離して苦しみの世界に引き込もうとする存在」と考えます。

モダンに言うと、名誉、お金、メンツ、噂、欲張り・・・などに走らせ、自滅させていく力ですね(英語では「Devil’s attack」と言ったりしますが)。

ただし、悪魔はそういった強欲、傲慢さだけを意味するのではありません。

闇、苦しみ、恐れ、環境、死、罪悪感、トラウマ・・・といったネガティブな感情への捕らわれも悪魔の役割なんです。

「私なんか価値がない」

「私の人生なんてこんなものだ」

「どーせ俺は、どーせ俺は、どーせ俺は…」

と私たちが陥りがちなアレですわ。

ちなみに、あの北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのお母様、横田早記江さんも拉致事件後クリスチャンになっているんですね。

私、最初そのことを知ったときはすっごく不思議で

「横田さんが悪いことしたわけじゃないのに、なんでクリスチャンになったのかな?北朝鮮を許したいのかな?」

とド素人な考え丸出しだったんです。

でも、実際に罪を悔い改めたい人だけがキリストを信じるわけではなくて、横田さんが背負う、いや、背負いきれないほどの苦しみ、辛さ、恐怖もまた、神により頼み解決してもらう必要があったのでしょう。

佐伯牧師は、教誨室に幽霊のお兄さんが出てきたとき

なんで俺やなかったんやろな~。

と言っています。

佐伯牧師には、「お兄さんは自分をかばって人を殺し、あげく自殺した」という自責の念が常に付きまとっています。

だから心のどこかで「自分はダメな人間だ」、もっと言えば「兄を殺したのは自分だ」ぐらいに潰れ続けていたのでしょう

死刑囚とも交流が持てたとたん、さも自分が見捨てて殺人者になるかのように「執行」されていくんです。

どちらも実際に手は下してはいないけど、精神的には殺しているように佐伯牧師は感じてしまうんですね。

ちなみにの「あなたがたのうち…」の聖句の直後はこう続いていくんですよ。

わたし(イエス)は真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。

これも「いや、信じなさい!」という反語です

要するに、ネガティブな感情から一切合切から解放され、喜んで自由を生きなさいってことです。

おじいちゃんが渡した手紙のメッセージのもう1つは、

「何があったかわかりませんが、もうあなたのことを誰も責めはしませんよ。安心してお行きなさい。」

という神のごとくの赦しGOサインだったのかもしれません。

もうどっちが聖職者なのやら?とアイロニックな感じですが、だからやっぱりあの机の境界線は曖昧なのです。

だからおじいちゃんはわざわざ権威あるイエス自身の言葉を語って、手紙に託したのでしょう。

この聖句の解釈はもっと深く洞察したかったのですが、キリスト用語を連発すると日本の大多数のノンクリスチャンの方を私がわけわかめにしてしまうと思いましたので、この程度にとどめておきます(笑)

4.教誨師をオススメしたい人

教誨師 ラスト
画像出典:https://tsutayamovie.jp/

映画「教誨師」は題材はものすごくシリアスなのですが、かといってショッキングなシーンはそれほどないです。

せいぜい最後の死刑執行のときに、実際の執行を連想させる縄が映るくらいですね。

ということで次のような方にオススメします。

法学部生

現役法学部生には観てほしいと思います。

私は大学を卒業して社会人となり、家庭も持ち、人間として成熟されていく過程でようやく

「法も裁判も人間が動かしている限り、犯罪者と同じくらい不完全なものだ」

と気づきました。

まあ、大学時代一緒にアホやってた友人らが警察や弁護士とかになっていったので、実感として「完全なわけねーな」と思ったのもありますが(笑)

しかし、事実として冤罪で50年も拘置所に入れられてしまった袴田事件、松本サリン事件で被疑者にでっち上げられた河野義行さんも司法の不完全さを語るいい例でしょう。

学生時代私はホントに法を完全だと思い、裁く方も完全だと憧れの目で見ていました。

我ながらこれは恐ろしい話です。

映画「教誨師」は法学部では教えてくれないことを教えてくれます。

死刑囚の心情、執行、改心の本当の意味…。

恥ずかしながら私は、EUの加盟条件に「死刑廃止がある」というのも、この映画の高宮のセリフで知ったのです。

ちなみに、書籍に「教誨師」(堀川惠子著)がありますが、これは映画とは別物で、50年間教誨師を務められた浄土真宗の渡邉普相(わたなべふそう)僧侶のルポルタージュです(やっぱり悪人正機の浄土真宗だ!)。

内容的にはこっちのほうがノンフィクションなだけに、映画の比じゃないほど重いですが(ちなみに私は1回読んだけどもう読みたくないw)、興味のある学生さんはぜひ!

死刑制度に興味がある人

死刑制度について再考したい人にはオススメです。

しかし、是非を問う映画ではないということを念頭に入れておいてくださいね。

2018年オウムの大量死刑執行以来、死刑制度は動き始めました。

いや、日本の死刑制度のパンドラの箱を空けてしまったのだとも思います。

死刑が執行されてから、実際に彼らと交流をしていた作家や聖職者が一斉に

あの人は本当はああだった。

生前あの人はこんなことを言っていた。

と口火を切りました。

それまでは、本人の裁判や処遇に影響があるために言えなかったんですね。

あのメンバーの中で、井上嘉浩元死刑囚は僧侶のサポートを受け、投獄中の23年間で「すべての罪はわが身にあり」と徹底的な懺悔をしています。

また、林泰男元死刑囚も「ブッダになりたい」と弱々しく執行までの日々を悔い改め懺悔の気持ちでもって過ごしました。

私は幸いなのか、まだ被害者家族の立場になったことはありません。

死刑についても第3者の立場でしか考えることができません。

だからこそ制度を中立な立場で物を考えられる存在でもあります。

死刑制度の存在と、実際の死刑システムはまた別物です。

裁判員制度も始まった今、死刑は他人事ではありません。

この映画を題材に、学ぶ、考える・・・いろんな作業をしていただきたいと思います。

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