映画「ゲド戦記」は生き辛さと”アフターコロナ”に役立つ最強の叡智がある!【ネタバレ】

ゲド戦記 ポスター

こんにちは、「宮崎吾朗とゲド戦記オタク」を自称しているエンタメブリッジライターしおりです。

ということで今回は宮崎吾朗初監督映画「ゲド戦記」をご紹介します。

2006年ゲド戦記を映画館に女友達と観に行ったとき、彼女が4歳の時に『母親が焼身自殺をした』というものすごくヘビーな話を喫茶店で聞いた後に2人で観たため、「命」や「生」をというテーマを扱う本作に気づけば号泣していました。

私がそう思っているだけもしれませんが、宮崎吾朗監督の作品はどれも「詩的」で、言葉が重要というか、言葉1つ1つがそのまま立ち上がってくるような言葉に力がある強い印象を受けます(そのあたりは天才アニメーターの父の絵と比べられてかわいそうだなと思います)。

彼は言葉を扱うのが非常に上手な監督だと思うんです、って上から目線でごめんなさい。

今回私がレビューする映画としてゲド戦記を選んだのは、このコロナ禍にあって「非日常」を強いられている私たちが、「世界の均衡が崩れた」というゲド戦記のテーマに共感し揺さぶられることは多いと思ったからです。

今言葉にならない不安やイライラといった感情を味わっている方、アフターコロナとか言ってるけど何も見えてこない方にはぜひ観ていただきたいです。

もちろんコロナ禍でなくても、どんな悩みや苦悶がある方にもおすすめです。

問題のその先、アフターコロナとかいう前に、「コロナ前」「コロナ今」に何が起きてるかをまず見つめることに、ゲド戦記は非常に役に立つ映画だと思います。

それでは早速レビューに行ってみましょう!

1.ゲド戦記の作品紹介

公開日: 2006年7月29日 (日本)
監督: 宮崎吾朗
脚本: 宮崎吾朗、丹羽圭子
原作者: アーシュラ・K・ル=グウィン
原作:「ゲド戦記」(主に第3巻「さいはての島へ」)
出演者:岡田准一、手嶌葵、菅原文太、風吹ジュン、田中裕子、 香川照之、小林薫、内藤剛志、ほか。
制作:スタジオジブリ
主題歌:テルーの唄
受賞歴:日本アカデミー賞にて、優秀アニメーション作品賞受賞。

こちらがゲド戦記の予告編です。

1分15秒頃「来た!」と怯え切った顔で少年アレンが恐れたものとは何なのか!?

意味ありげなセリフが気になりますね!

2.ゲド戦記のあらすじ

ゲド戦記 画像 アレン
画像出典:https://www.youtube.com/

まず初めにゲド戦記のあらすじをご紹介します。

私が公開当時映画館で観たときも「アレンの内界ドラマ」が自分の状況に似ていて涙しましたが、2020年のコロナ禍真っ最中の今観たとき、これは「アレンの内界を超えた社会的メッセージ」ということを多く含んでいたことに驚きましたね。

ゲド戦記は賛否巻き起こった映画であるものの、やはり扱うテーマは児童文学に根差した普遍性を持つものなのだと感じています。

ゲド戦記のあらすじ(ネタバレなし)

ゲドと言うからには「ゲド」という名の人物が主人公なのかと思いきや、主人公は王の息子で17歳の「アレン」。

このところ王国では家畜が疫病で何千頭も死ぬという被害が起きており、人間の赤ちゃんまでも同じような病気症状が出てくるという憂う事態となっていました。

しかも船乗りが沖に出ているとき上空で見たものは、竜が地上にやってきて共食いをする姿…。

一体世界に何が起きているのか原因もわからず、「世も末」という空気に王は頭を抱えます。

そんなとき、前夜から行方不明になっていたアレンは、王である父が1人になったところを見計らって背後から剣で刺して刺殺。

アレンというのは純粋で憂鬱で自己破壊的でいつも悩ましげな『何者かになりたいけどなれない』的な雰囲気を醸す少年。

アレンは父が腰に巻いていた魔法で鍛えられた剣を盗み、そのまま荒野へ走り去っていきました。

ここからアレンの内界を飛び越えた、社会の内界の話が始まります。

ゲド戦記のあらすじ(ネタバレあり)

ゲド戦記 画像 アレン
画像出典:https://www.youtube.com/

今アレンの住む世界は、光が弱まり、世界の均衡が崩れ、自然も人も「おかしくなっている」という危機に瀕していました。

アレンは荒野でオオカミの群れに襲われそうになったところを、間一髪1人の魔法使い、大賢人に救われます。

その大賢人こそ顔に傷があることが特徴の老年のハイタカ(ゲド)

ゲド戦記は「字(あざな)」という仮の名前とともに「真の名(まことのな)」が非常に重要な役割を果たしますが、このとこは後の「見どころ」できちんと解説したいと思います(ハイタカの場合は、ハイタカが字で、ゲドが真の名)。

「目的もない旅だ」とハイタカはアレンを連れとして廃墟と化した村から村へ視察をするように旅をしていたのですが、ハイタカ自身は「なぜ世界がこのように荒廃したのか」という原因を探る旅をしており、その原因が悪役で因縁の魔法使い「クモ」が最果ての地で悪さをしていることをすでに知っていたのでしょう。

道程、ホートタウンという大きな港町にたどり着きます。

そこで見た光景は、ハジアというドラッグを乱用して廃人と化した行き倒れの人たち、それを商売にして利益を上げる悪党、人がモノとして売られる奴隷市場、まじない師という魔法使いの次に高尚な職の人が客を騙してバッタモンのシルクを売り飛ばすような堕落した世界でした。

『オレと同じだな…』という声が聞こえてきそうな鬱状態のアレンですが、アレンはなにか幻覚のような「もう1人の自分」に追い立てられている不安な少年です。

これこそアレンが切り離してきたアレンの「影」で、それは夢の中で出て来たり、白昼夢のように実際に出てきたりするアレンを悩ませる存在です。

ル・グウィンさんはユング心理学に親しんだと言いますから、「影(シャドウ)」はゲド戦記の中でも強調されるべきことです。

ただ映画の場合は、原作と違って「見たくもない自分=影」として自己を統合するプロセスとするのではなく、むしろ「見たくもない光」を影と設定して、光がアレンを追っているのです。

この「光」をアレンがどう捉えているのか、なぜ裡に取り込みたくないのかも後ほど解説します(たいてい、人が取り込みたくないのは醜い自分ですがアレンは違うんです)。

ここでアレンは人狩りに遭っている1人の少女と遭遇し、先ほどの父の剣で人狩りを刺して少女を救出しました。

この少女こそ主題歌「テルーの唄」で有名な顔に火傷の痕がある少女テルーなのですが、テルーは助けてくれたアレンに「ありがとう」と一礼すると思いきや、パチン!とアレンの手を撥ねつけて「近寄るな!」と言って走り去っていきました。

もちろんアレンはさらにどよーんとして、ハイタカと別れて港で眠りこけていると、先ほどの人狩り(名前は「ウサギ」)に見つかり、アレンは奴隷となってコンテナに乗せられ、連れられて行きます。

『もうここでおしまい、オレの運命なんてここで終わりだったんだ…』という声がいよいよ聞こえてきそうな厭世的アレンですが、ハイタカが「物捜しの術」という魔法を使ったことによりアレンの手かせは外され、ハイタカとともに逃げます。

ケガをしているアレンの手当てもあり、ハイタカが訪ねたところは昔なじみのテナーという夫人の家でした。

テナーもまた魔法使いと呼ばれますが、空を飛んだり敵を倒したりするのではなく、どうも「魔女の宅急便」のキキのお母さんのように薬草を魔法で配合してご近所さんに配っているような女性(というか巫女)です。

牧歌的な地で、羊などの家畜や田畑を耕して生きるテナーたち。

そしてテナーのところに5年前から住み着いていたのが、親に捨てられた孤児、アレンが助けたテルーでした。

テルーは極度の人ギライですが「鷹(タカ)」という音に敏感に反応して、ハイタカには親近感を持って打ち解けます。

ハイタカはテルーの顔のヤケド痕を見て「まさか…」と言うのですが、この真意がラストテルーが竜に変化できることでもわかりますが、原作ではテルーは竜族の最長老の末裔なのです。

翌日、ハイタカはテナーの農作業を手伝いますが根性も体力もないアレンはぜーぜーひーひー。

ここでハイタカは「なぜ魔法使いなのに農業をするのか?」というアレンの疑問に対しこの映画ベスト3に入る名言を残します。

この世界の神羅万象はすべて「均衡」の上に成り立っている。

風や海も大地の光の力も、獣や緑の草木も。

すべては「均衡」を崩さぬ範囲で正しく動いている。

しかし、人間には人間でさえ支配する力がある。

だからこそわしらはどうしたら「均衡」が保たれるか、よくよく学ばなければいけない。

そしてハイタカは「すべてのものには『真の名』があり、その『真の名』を知ることによって相手を支配できるのが魔法」とアレンに伝えます。

翌朝ハイタカはアレンの馬に乗って、不均衡の原因を引き起こしている「クモ」の城を訪ね、魔法で鷹に変身して偵察します。

原作でクモは、かつて黄泉の国で「死者を蘇らせる」という魔法を乱発しており、自らも「不死身を手に入れた」と狂喜乱舞していたのですが、ハイタカはそんなクモを追い、「お前が死んでないなら生きていない、つまり何者でもない」と魔法の限りを尽くして「生死の境界の扉」をピシャリと閉じたのです。

映画ゲド戦記はそのクモが再び蘇り、また「生と死の境界の扉を取り除く」という永遠の命を欲し研究し尽くす魔女(でも、原作で男だから男なのかな?魔法学校に入れるのは男だけみたいだし…)として世界の均衡をかき乱していたのでした。

アレンもまたハイタカを追うようにテナーの家を去り、またしょぼんとしながら放浪の旅に出ますが、沼地で幻覚に襲われて倒れていたところをクモにさらわれます。

クモの城で毒を盛られて朦朧とするアレンは、「死ぬのは怖いだろ?そなたは永遠のいのちを手にする選ばれし者なのだ。さ、真の名を吐け」と言わんばかりにそそのかしてアレンの真の名「レバンネン」を吐かせます。

口を滑らせて「真の名」を告げたアレンはクモの手下になりました。

その夜テナーの家でも事件勃発、ホートタウンで人狩りをやっていたクモの直属の部下、ウサギたちがテナーの家に押しかけて、テナーをさらっていったのです。

もちろんこれはテナーを人質に因縁の仲であるハイタカをおびき寄せるためで、テナー拉致の目撃者となったテルーは自宅の木の塀に縛り付けられます。

テルーは自力でなんとか縛られていた紐から手を抜き、戻ってきたハイタカに「テナーが連れて行かれた!」と報告、ハイタカはクモの城にすっ飛んで行きました。

クモの館に到着したハイタカはクモと対峙。クモは、

最大にして最終の魔法を生み出した。

生死両界を分かつ扉をこじ開けてやる。

私は不死を手に入れ、永遠不滅の存在となるのだ。

と脅します。

クモに「真の名」を明かして、すっかり人相が変わったアレンに、ハイタカはこう名言を残します。

不死は生を失うことだ。

自分がいつか死ぬということを知っているということは、天から授かった贈り物なのだよ。

わしらが持っているものは、いずれ失わなければいけないものばかりだ。

苦しみの種であり、宝物でもあり、天からの慈悲でもある。

わしらの命も。

この言葉に目が覚めて号泣したアレンですが、ハイタカはそのままテナーと同じ地下牢に閉じ込められてしまいました。

そのころテルーがクモの城に着くと、なんとテルーが出会ったのは「アレンの影」でした。

「アレンの影」はテルーに、「アレンは不安が大きくなり、その不安を食らって『心の闇』となった。その『心の闇』がアレンの体を奪って逃げた」と告げます。

闇と共にあるべきもの、それは光。

その光が体を求めてさまよう影になってしまった。

ここでアレンを追っていたのは「アレンの光」であったことが明かされます。

テルーは剣をアレンから受け取り、実物(といっても両方合わせてアレンなのだが…)に地下牢に閉じ込められているハイタカのテナーの救出を求めますが、やはりそこまではやる気のない気弱なアレン。

「終わりが来ることが分かっても、それでも生きていかなきゃならないのかな」とのアレンの質問に対し、テルーはまた名ゼリフのようにこう叫びます。

違う!死ぬことがわかってるから命は大切なんだ。

アレンが怖がってるのは死ぬことじゃないわ、生きることを怖がってるのよ。

「死んでもいい」とか「永遠に死にたくない」とか、そんなのどっちでも同じだわ。

1つしかない命を生きるのが怖いだけよ!

命は自分だけのもの?私はテナーに生かされた。

だから生きなきゃいけない!

生きて次の誰かに命を引き継ぐんだわ。

そして2人は「レバンネン」「テハヌ」と「真の名」を交換し合い、アレンもこの言葉に目が覚めたようにしっかりした男となり、自らの光をようやく引き受け、テルーと抱き合ってクモ倒しに挑みました!

ハイタカはクモの指示により塔から落とされる寸前。

そこへアレンがやってきてクモと一騎打ち!

アレンが剣でクモの手を切断すると、魔法の杖ごと落ちてクモは実年齢の老婆(というより死神系)にみるみる変貌していきました。

まるでラプンツェルの魔女ゴーテルが魔法が解けて実年齢の醜いばあさんに戻っていったのと似ています。

そしてテルーをさらって逃げたクモですが、アレンの剣、そしてテルーが「影は闇に帰れ」と竜に変身したことで、ついにクモは焼かれて死んでしまったのです。

これにてクモを殺し命拾いしたアレン、テルー、ハイタカ、テナーの4人。

アレンは償いのために故郷へ帰るといい、ハイタカはまた旅に出ていったのでした。

3.ゲド戦記の見どころ

ゲド戦記 クモ アレン
画像出典:https://www.youtube.com/

続いてゲド戦記の見どころをご紹介します。

私が思うに、2020年世界が新型コロナウィルスによる大規模災害を経験している今、ゲド戦記は今の時代と照らし合わせて様々なことを教えてくれるように思います。

このことを5つの視点から見ていきたいと思います。

アレンの「影」と2020年の日本社会

ゲド戦記の公開から10年以上も経過し、新型コロナウィルスが私たちを苦しめたのは、病気という感染症だけでなく、これまで露呈されなかった社会の持つ矛盾、差別、そしてこのような有事の際に社会機能が一気に停止する「脆弱性」でした。

これらはアレンが最も嫌うものだったでしょうね。

とにかく私たちは感染症1つで仕事、住まい、あらゆる活動、特に芸術活動をやっていた方なんて真っ先にそれを奪われるほどの「薄氷社会」の上をパリパリとイチかバチかで歩いていたことを痛感させられたのです。

コロナ以前の社会とはそのような社会でしたし、私たちは「一刻も早く元の生活に戻りたい」と思うものの、「戻りたくない部分もある」というのが正直な気持ちではないでしょうか。

現実的に薬やワクチンが開発されて一定数コロナが終息したとしても、「あの日に帰りたい、帰れない~♪」という歌にあるように、もはや以前のような困窮の再生産を繰り返して絶望を生む社会には戻れないし、戻りたくもないでしょう。

原作のゲド戦記第1巻は「影との戦い」です。

「影」というのは通常「自分が蔑んできたこと」「自分が排除してきたこと」「無意識の全体」です。

私個人的には影とは「短所」のようなネガティブなイメージがあったのですが(例:嫉妬、鬱屈、のろま、潔癖など)、ここは大胆に原作を作り変えて宮崎吾朗監督は「光のほうが影である」と設定します。

今回改めてゲド戦記を観て、「光を受け入れたほうが明るく生きやすいような気がするけれど、なぜアレンは光の侵入を拒むんだろう?」と私は率直な感想を持ちました。

ただ映画の中で「光」とは、「命」「生きること」、つまり「死を受け入れる自分」としてのイメージの総体として描かれています。

アレンは、限りのある命の労苦を受け入れる勇気も覚悟もありませんでした。

不安や恐れを極力抑えようとする人には、喜びや楽しみも「ふりこの法則」と同じように、その振幅の幅が小さいのです。

ゲド戦記には大きく3つの不均衡があります。

①アレンの内界の不均衡、②人間の欲望による不均衡(これはクモが言っています)、③クモの魔術から生じる世界の不均衡。

今の世界にも象徴としてこの3つの不均衡はすべて成立しているように思います。

個人的なものから世界に至るものまで、まるで相似形のように不均衡は関連しあって存在しているのです。

そのことをもう少し掘り下げてみたいと思います。

心に他者を住まわせない、アレンとクモと現代人

ゲド戦記 アレン
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アレンは悪役クモに向かって面白いセリフを吐きます。

クモ!お前は僕と同じだ。

他の人が「他者」であることを忘れ、自分が生かされていることを忘れているんだ。

死を拒んで、生を手放そうとしているんだ。

目を覚ませクモ!怖いのは皆同じなんだ。

冒頭から鬱全開のアレンが、まさか悪役クモを「自分と同じ」発言をするとは驚きでした。

コロナウィルスがいよいよ日本に侵入してきたとき、私たちはまずトイレットペーパーを買占め、2個も3個もかついで家に帰りましたね。

あの買占めのとき私たちに何が起きていたのか?

我先にと買い占めた瞬間、私たちの中から「他者が消えた」のです。

自分のことで頭がいっぱい、他人のことなどどうでもいい…これぞアレンやクモの持つ自意識過剰の共通点ではないでしょうか。

同じく児童文学作家であった故・灰谷健次郎さんは「いい人というのは、よりたくさんの他人を自分の中に住まわせている人」とおっしゃっています。

他人の痛みを自分の痛みと感じられることができること。

もちろん他人と生きることは楽なことではありませんし、辛いことや苦しいことだってたくさんあります。

今回私は緊急事態宣言下の自粛生活において、初めて家族3人(夫&子)でずっと家で過ごす日々を送っていますがそれは楽なことではありません。

「1人の時間が欲しい」「3食も飯を作りたくない」と思うことだってたくさんあります。

しかし、他者と生きる中で味わう苦楽は「人が人であることの基盤」とも言えるのではないでしょうか。

あの記憶に新しい相模原障害者施設殺傷事件の裁判で、ご遺族の母親が植松被告に対し、

あなたは障害のある子が私たち家族を不幸にしたと言ったけど、私は不幸にされた覚えはないし、不幸ではありませんでした。

でも、大変でした。

この言葉はアフターコロナで「次に来るべき社会」のことを言い切った言葉とも言えるでしょう。

「自分と他者性」の的を得ていて、人と生きることは大変だけれども、それは不幸ではないんです。

植松被疑者はそこが決定的にわからなかったし、「大変≠不幸」が今もわかっていません。

私も自粛で家族3人でおおかた家で過ごすことは大変だと言いましたが、どこか3人で同じ時間を分かつことに心がほっこりするような、これまで味わわなかった幸せも感じているのも事実です。

ゲド戦記が時代を超えて言いたいメッセージは「大変と不幸は違う」「人と出会ったからには、出会った責任を全うする」ということではないでしょうか。

「真の名」を奪われることの意味を解説

ゲド戦記 画像 クモ
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「真の名」を奪われるということは何を意味するのでしょうか?

「千と千尋の神隠し」も千尋は「千」になることで湯婆婆の支配下に入り、名前を忘れそうになって焦る場面があり、ラストはハクが「真の名」を思い出すことがとても重要なポイントですよね。

ゲド戦記は真の名を知ることが魔法で相手をコントロールすることの第一歩。

古来日本では「名前そのものに霊魂が宿る」とされていて、名告り(なのり)は非常に重要なことで、男が女に名を尋ねることは求婚、その逆は承諾を意味していました。

万葉集の巻頭歌にもまず「名告り」のことが記述されています。

また、ゲド戦記をこよなく愛した心理療法家で元文化庁長官の故・河合隼雄氏は、

私の仕事は「真の名」を探すことと同じだ。

と著書で述べられています。

例えば、誰でもわけもなくイライラすることがあるとして、それが「わけがわからない」限り、そのイライラは収まりません。

よく考えているうちに昼休みに同僚と雑談したときからイライラが始まったと気づき、その同僚が、「自分の友人に株で大儲けした人がいた」と言ったことがきっかけらしいとわかってきます。

『自分はお金など人生であまり大切ではない』と割り切っているはずなのに…と不思議に思っていると、自分の父親は、「世の中はすべてカネや!」が口癖で、それに強い反発を感じていたことを思い出します。

このあたりまで来ると父が死んでから長いこと経つのに、未だに父の言葉にこだわっていること、『お金のことは割り切っている』なんて大きいことを言ってもやっぱり気にしている…なんてことを考えているうちにイライラがおさまってきます。

このプロセスは「感情のイライラ」として捉えていたことに「真の名」がわかってきたので、自分の裡にあるものとして「支配できた」というわけです。

これを他人とやり取りする場合は相当のリスクも伴いますので、「真の名」を相手に差し出すことには慎重かつ信頼が不可欠です。

私たちにも字(あざな)はありますよ。

例えば私なんて出産した瞬間「○○ちゃんのママ」ですからね…ひどいときには、ただ「お母さん」「ママ」と総合的に呼ばれます。

「私だって名前があるんだから名前で呼べよ」って特に産後は思っていましたが、「課長」や「部長」といった肩書きだって同じですよね。

「字」の特徴はテンポラリーなもので、すぐに失う可能性があることです。

だからこそ「個人の名」で生きて活動することは非常に重要なんです。

「しおりならしおりとして文章書いてる」「しおりがしおりとしてゲド戦記を観る」といった具合にです。

今「真の名」が脅かされようとしている問題をご存じでしょうか?

それは憲法改正の話ですが、自民党が改正しようとしている憲法13条は、

  • (現行)すべて国民は、個人として尊重される。

この「個人として」を自民党は「人として」に変えようとしているんです。

この2つは全く意味が違いますよ。

この憲法改正は「真の名」が「字(あざな)」に変えられる現象と言ってもおかしくないことであり、この言葉1つの変更をどれほど重く受け止めないければいけないのか、私たちはしっかりと考えなければいけません。

テルーの名言「命を大切にしないヤツなんか大っ嫌いだ!」は私たちが次に進む道

新型コロナウィルスに話を戻すと、結局私たちはシンプルに「あ、自分も死ぬかもしれない」ということにパニックを起こしたのではないでしょうか。

これまで私たちの生活とは、ほとんどの場合が「命があること」など二の次三の次にしてしまうような活動だったのです。

私も「人が死ぬ(特に高齢者や基礎疾患のある友人など)」ということを前提にその人と接するなんてことは今回のコロナが初めてですし、ソーシャルディスタンスと言われて「自分の行動が他人の命を預かる」なんて発想を持ったのは育児以外では初めてです。

今回支給される10万円の定額給付金は「住民基本台帳」をベースに支給されますが、本当の意味で最優先で支給されるべき方とは住民票さえ持たない、または雇止め等で住居を失った方々で、ここにも何だか「生きる意味のある命」「生きる意味のない命」の選別が行われているようでなりません。

今この日本で「家を失う」ということがどれほど大変な生活を強いられることはあなたもご存じですよね。

そうしたホームレスなどの人について「税金納めてないんだから」なんてうちの夫は言いますが、『納めてないというよりは、納めたくても納められないんじゃないの?』と私個人的には思っています。

私たちは今回のコロナ禍で「死」というイメージをドーーンと重苦しく植え付けられたことで、ようやく気づいたことはつまるところこうではないでしょうか。

欠くべからざる本質的な価値とは「生きていること」。

アフターコロナはそのような社会にすべきである。

これは先ほど触れた「他者を心に住まわせる話」と共通点もありますが、例えばこのように困難にぶつかったとき「助けて」と他人に言われること、「助けて」と他人に言えることって両方とも社会としてとっても大切なんです。

「助けて」と言われたら「こんな自分も必要とされるんだな」と思えるし、「助けて」と言うことができれば「こんな自分でも生きていていいんだな」って思えます。

人というのは人と出会ったとき、「出会った責任」をそこで引き受けなきゃいけないんです(先ほどの植松被告はそこがまったく理解できないのでしょう)。

今回不要不急、そして休業要請として真っ先に削られたのは娯楽でした。

しかし、自粛中私たちが最も励まされたのは「音楽」ではなかったですか?

「うちで踊ろう♪」の謎の首相コラボにも笑わせてもらいましたよね(是非は置いておく)。

どんな命も生きていることに意味がある。

このことを「人間臭い」と排除してきたことがコロナ禍以前だったとすると、アフターコロナはそういった価値転換にしてかなければいけないのだと思います。

手嶌葵「時の歌」から学ぶアフターコロナ

ゲド戦記 画像 アレン
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私はエンディングの手嶌葵の「時の歌」が大好きなのですが、ここにもまたアフターコロナを生き抜く知恵が入っていると思います。

コロナウィルスだけでなく、何かあなたが予期せぬ困難や苦しみにぶつかったときにも役立つことだと思いますのでちょっと歌詞を抜粋して解説しますね。

  • 光が闇に 溶けるように
    心の中を通り過ぎる 君の歌を歌うよ
  • 光が闇に 浮かぶように
    沈黙の中に通り過ぎる 時の歌を歌うよ

今自分が「闇の中にいる」と思う人はたくさんいるでしょう。

これだけ非日常を味わっているのだから当然ですし、私の周りでも「涙もろくなった」「とにかく今後の生活が不安」といった人が何人もいます。

しかし、コロナが暴いた社会構造の脆弱性、人と人との希薄性を変えようとする希望のある未来はすでに始まりつつあるのです。

ゲド戦記はアメリカ文学ですが、新約聖書のある一節をご紹介したいと思います。

光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(新約聖書 ヨハネによる福音書1:4)

なんとなく光とは「闇が過ぎ去ってからくるもの」と思われがちですが、「時の歌」も聖書のこの一句も「光は闇の中にある」と強調されています。

あさがおという日本では国民的な花がありますが、あれは朝一番の夜明けの日光を浴びて咲く花と思われがちですがそうではないんですよ。

あさがおは、夜明け前の最も闇が深まったときに花開くんです。

朝の光でなく、「夜の冷たさ」と「闇の深さ」の中で、暗闇の中に咲くんです。

コロナ以前の私たちもどこか「自己責任」とか「他人に迷惑をかけてはいけない」とか、どこか1人大海原にほっぽり出されて「あとはご勝手に」と根性論で生きることを強いられてきたと思いませんか?

私は今回のコロナ禍で、「マスクがどこにも売ってない、夫が花粉症だから本当に困る」ということをいろんな人との会話の中で言っていたんですね。

その1週間後くらいに、ある方がジップロックにマスクを10枚入れてくださいました(べつに私が「マスクくれ」と吹聴して回ったわけではありません)。

あの欠品続出で信じられないほど価格高騰していたときに、この10枚は本当にありがたかったしその方の人情に触れてとても嬉しかったですよ。

で、そのころ私はたまたまネット通販にてマスクを購入できたのです。

同じタイミングで2か所からマスクを手に入れた私は、眼前にあるたくさんのマスクたちを見て悩みました。

(うーん、今家にこれだけあっても多いな。だったら困っている人にあげたほうがいいんじゃないかな)

そして自慢するほどのことではないのですが、たまたま乗り合わせたタクシーの運転手さんに「運転手さんマスク余ってますか?」と聞き「ないよ~どこにも売ってないしね…」と辟易した表情で言われましたので、持ち合わせていた7枚セットを友人がしてくれたのと同じようにジップロックに入れてあげました。

コロナ禍じゃなかったら、私はタクシーの運転手さんにもっと冷たかったはずです。

だけど「こういうときには助け合わなきゃ」って思うし、アベノマスクも私の周りには「施設に寄付をする」という人が多く、またあの給付金10万円に対しても「うちはまだそこまで困っておりませんから、どうぞお役立てください」とまだ給付もされていないのにホームレス支援団体などに届いているというのです。

私にしろ、友人にせよ、その10万円の方にせよ、コロナという闇の中に立たなければ見えないものを見たのです。

手嶌葵の歌にあるようにそれはものすごく「沈黙」という静寂の中で行われることで、元ZOZO前澤社長のお年玉キャンペーンのように目立って行われることではないですが、私たちは今社会の抱えてきたひずみを是正する「均衡」へ向けてのスタートを切っているように思えてなりません。

4.ゲド戦記をオススメしたい人

ゲド戦記 画像 テルー
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最後に、ゲド戦記をオススメしたい方は以下のような方です。

公開から10年以上経って観ると、新しく感じることが出てくるかもしれません。

その発見がまた重層的に面白い映画だと今回改めて感じています。

コロナ禍でもそうでなくても心がモヤモヤしている人

コロナ禍であっても、そうでなくても、心が何だかスッキリしない、モヤモヤしている人にはオススメです。

ゲド戦記の面白いところは、科学至上主義的なこの時代に「魔法」という時代錯誤ともいえる要素を取り入れたことがあり、空を飛んだり、架空の生き物に会ったりする「夢」のような内界ドラマや、科学的でも唯物的でもないやり方で社会を見る視点を持たせてくれることです。

どんな人であれ「モヤモヤ」「イライラ」を感じることはノーマルでしょう。

特に価値が一大転換するときの土台とは、いったんそのように人を激しく不安に陥れるものです。

映画ではアレンの心を辿って私たちをそのような旅に出させてくれるのですが、観終えたときには「自分のドラマ」としてこの映画を捉えることができるのではないでしょうか。

少なくとも私は公開間もない20代で映画館で観たときも、30代になった今も、その時の自分に合った新しい発見をくれました。

なぜ父親殺し?アレンのように親離れしたい人

ゲド戦記 画像 アレン
画像出典:https://www.youtube.com/

アレンのように親離れしたい人にはオススメです。

これは職業として建築畑からアニメーターに選び直した宮崎吾朗監督のメンタリティでもあると思います。

アレン役の声優は岡田准一さんですが、映画冒頭はほんとうにナヨナヨした女々しい好演技で、アレンに「腰が入ってねぇ!」とオバハンになりかけている私は思ったものですが、ラストシーンの上の画像を見てくださいよ。

打倒クモのときには神々しく剣が光るほどに「男」になっていますね。

もちろん声を添える岡田さんの声質もキリっと腰が入った男へとしっかり進化を表現しています。

ちなみにですが最初の「父親殺し」のシーン、あれは宮崎吾朗監督がねじ込んだと思われがちですが、鈴木敏夫さんの著書によれば実は鈴木さんのアイデアなんですよ。

吾朗監督が作った最初の設定では「仲たがいした父子の間に母親が仲裁役として入り、もう1度関係を取り戻す」という設定だったそうです。

それじゃあ、お前んちと一緒じゃないか!

と宮崎家をよく知る鈴木さんのチャチャ?(笑)により、「父を殺す」という大胆アレンジになったそうです。

「原作を捻じ曲げた」と批判が多かったこのシーンではありますが、「この父親殺しが良かった」と大絶賛したのもまた映画を観た河合隼雄さんだそうで…。

ということで何事も両側面があるということを忘れずに、アレンの自立の過程を見ていただきたいと思います。

「老若」のハイタカとアレンの組み合わせ、影と分離したアレンだからこそ出会った「同じ影の問題」を持つ同年代の異性テルー、アレンが見るもう1人の光というアレン…これらはすべてあなたが普段生活する中で見落とされがちな自立のエッセンスだと思いますね。

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