100倍理解が深まる!アニメ映画「海獣の子供」謎解きレビュー【あらすじネタバレ】

海獣の子供 フライヤー

こんつは、高校3年生まで海辺で育ったエンタメブリッジライターしおりです。

小学生のときには「おーい海」って歌まで歌わされました。

さて、そんな海っ子な私が今回ご紹介したいのはアニメ映画「海獣の子供」。

はっきり言いますが最強にオススメです。

ここまで全身&魂が揺さぶられた映画は10年ぶりではないか?!と思うほど素晴らしい!

だって、映画観終わった後、見知らぬお年寄りが落とした杖を拾ってあげたもんね(←なぜこんな心理になるかもあとで解説しよう!)

まずはクイックリビューで、海獣の子供の天才製作陣からご紹介。

五十嵐大介(原作者)×STUDIO4℃×渡辺歩(鉄コン筋クリートなど)×小西賢一(高畑勲かぐや姫など)×ダメ押しで米津玄師

この映画を観た人は100%の確率で「アニメーション映像がすごい!」と言うと思います。

ただ、ストーリーは難解です(特に後半)。

難解なんだけどべつにわからなくていいです、「わからない」を楽しむ非言語的な映画だから。

そもそも五十嵐大介さんの漫画原作5巻(2006~2011年連載)でさえ「解釈が難しい」とされてたんだから、「映画はどうなるんだろ?」と思っていたんだけど、映画はよりセリフの抽象度が上がってやっぱり難しかったw

ま、そんな映像の美しさにつきましては他のレビューサイトにお任せするとして、私はこの「海獣の子供」のはらむ数々の謎解き、解釈、バックグラウンドを「おーい海」の名に懸けて、ガンガン掘り下げようと思います!

1.海獣の子供の作品紹介

公開日:2019年6月7日 (日本)
監督:渡辺歩
原作者:五十嵐大介
原作:海獣の子供
音楽:久石譲
出演者:芦田愛菜、石橋陽彩、浦上晟周、稲垣吾郎、蒼井優ほか。
主題歌:米津玄師「海の幽霊」
受賞歴:第13回文化庁メディア芸術祭にて、マンガ部門優秀賞(原作)

2.海獣の子供のあらすじ

海獣の子供 るか
画像出典:https://www.kaijunokodomo.com/

映画を観る前、やっちまいました。

それは「Kindleで原作全5巻のうち、6月中は1巻だけタダ読みできる」ってやつ・・・これはめっちゃ後悔。

原作と映画はかなりストーリー軸が変わりますので、適当な予測がアレ?アレ?とどんどん外されていきました。

まだ映画を観ていない方は「原作は全く読まない」か「すべて読む」のどちらかにすることをオススメします。

あらすじはあくまで映画のストーリーに乗っ取って書きますね(ネタバレありにはすでに解釈を含んでいます)。

海獣の子供のあらすじ(ネタバレなし)

この話は、中学生琉花(るか)の夏休みの物語。

琉花が住むのは青い空、青い海という自然風景に、赤い橋、赤信号、赤い花のある場所…。

この「青風景に、赤の刺し色」を見れば、舞台は一目で鎌倉エリアだとわかります。

鎌倉ってそういう赤と青の街なんですよね。

そして、琉花はその鎌倉含む湘南エリアに在住。

ちなみにこの赤と青の対比は、のちの、「有機物、人工物、この世」対「海、空、宇宙、あの世」の布石だと感じます。

さて琉花はハンドボール部にいそしむ反面、性格はコミュ障。

「言いたいことが言えない」

が裏目に出て、夏休み初日にいじめられてしまい退部させられます。

両親は別居中で、家には飲んだくれの母がいるだけ。

家にも学校にも居場所がなく、やさぐれながら「新江ノ倉水族館」で働く父のもとを訪れます。

父を探しているうち、水槽の裏側で出会ったのは、魚用水槽を飛ぶように泳いでいた、気さくでひょうきんな謎の少年「海(うみ)」でした。

ここから、琉花のディープな一夏が始まります。

海獣の子供のあらすじ(ネタバレあり)

海獣の子供 海 空
画像出典:https://www.kaijunokodomo.com/

五十嵐作品の特徴は、最初に言葉の議論があり、後半で圧倒的な絵と神秘主義が描かれることなんですね。

最初にこの映画のテーマをズバリ言うと、

僕たちはどこから来て、どこへ行くのか?

です。

さっきの謎の少年海たちがこのセリフを連発するのですが、要は「生命の来る道と行く末」を探る映画です。

その中で、彼らと関わる1人の女子中学生、琉花の成長物語となっています。

私は映画館に早く着いたので、開始前の新作映画の予告編(「ONE PIECE STAMPEDE」「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」「天気の子」など)を観ていたんですが、こぞって「生きる意味は!」とか「自分って何?」とか同じようなコピーで告知されてたのが印象的だったんですよ。

それだけ私たちは、生きる意味とか自分の存在意義がわからないのかなぁって。

その後始まった「海獣の子供」はそういった疑問に答えてくれるような映画だったと思います。

ただ、映画は原作の10分の1ほどしかセリフがないw

特に中盤からは詩的なセリフばかりがポツ…ポツ…と断片的に語られ、それを大迫力の音楽と映像とともにストーリーを追っていくまさに「全身体感型」の映画です。

もしレビュー書かなくていいんだったら、私は目を閉じて、この映画を聞いていたと思うな(笑)

と前置きもそこそこにあらすじに戻りますが、水族館で出会った海くんは、10年前フィリピン沖合で発見されたジュゴンに育てられた少年でした。

「水がなければ生きていけないから」と水族館に預けられていたんです。

海くんには、同じくジュゴンに育てられた空(そら)という金髪で色白の兄がいるのですが、空は体調がすぐれず入院しており、さんざん人間の研究対象にもなっていました。

ちなみに空の性格は海とは正反対で、すべてを達観したようなつっけんどんなキャラ…。

夏休み中、水族館の掃除を手伝うことになった琉花は、海とすっかり意気投合。

人魂(ひとだま)が来るよ!

と海に誘われるがまま、ある日の夜、2人は隕石がシャーっと小笠原沖に落ちるのを見ます。

「おいおい、君の名は。かよっ!」って思いますけど、その後の展開は全然違うのでまあ観ててくれw

海や空はどうも普通の人間ではなく、魚でもなく、彼岸(海)と此岸(陸)を自由に往来する媒介者のような存在です。

海獣の子供 図

そして、海がぽつりと言うセリフ。

ソングが聞こえる…

ソングとは、ザトウクジラの奏でる声の唄のこと。

海や空は、この映画のクライマックスである、地球から宇宙が創造される壮大なイベント「誕生祭」を予測するんですね。

先にネタばらししますが、「誕生祭」とは銀河や惑星、宇宙そのものが地球からビッグバンみたいに誕生する出来事のことで(パンスペルミア説てやつ)、1頭のザトウクジラを母体に行われるんです。

っと言葉で説明してもわかりづらいと思いましたので、招待状っぽく図にしてみました。

海獣の子供 誕生祭

さてさて海や空と次第に交流を深めていく琉花。

クジラの唄は、海の複雑な情報を見たこと、感じたことをそのまま伝える。

空たちがこぼすこんなセリフは、コミュ障の琉花をどんどん刺激します。

ちなみに原作では、なぜ琉花がコミュ障かっていうと、「本当は海で生まれるはずだったけど、陸で生まれてしまったから」ですw

一方世界では、NYなど本来の生息地域でない場所でクジラが発見されるという怪奇現象が起きていました。

湘南でも深海魚が大量にうちあげられるなど、「海に異変が起きている」と人間にとっては不穏な空気が漂います。

ただこれも、海の世界ではすべて「誕生祭への準備」なのです。

その中で科学者たちは

海と空を追っていれば、クジラの祭りの秘密や、その祭りに誰が招待されているのか?

海の神秘がもっとわかるのではないか?

と海くん空くんを利用しようと考えるんですね。

その研究リーダーはジムっていうひげ爺さんなんだけど、ジムは研究チームに加わりながらも、空と海を人体実験のように苦しめていることに良心が呵責します。

そんなある日、空は入院している病院を逃げ出しました。

周囲が心配する中、まったく気にしない海。

なぜって、2人は目に見えない伝達手段を持ってるから。

「このままクジラを見に行こうよ!」と、海と琉花は、伊豆方面へヒッチハイクします。

やはりそこに空はいました。

その伊豆方面の海岸で、琉花はアングラードという名前のジムの若い助手と出会います。

アングラードは

海と空の寿命を延ばしたかった。

この星で1番偉いと思っている連中(人間)から…。

と、ジムの研究を手助けするフリをしつつ、実は海や空を保護していたんです。

琉花は海や空の影響でスイスイ~と泳げるようになり、ジンベイザメや魚の大群と泳ぎながら、海と空と過ごす日々を「楽しい」って感じるようになります。

同時に、琉花は頻繁にフラッシュバックを起こします。

赤ちゃんの頃お母さんにおんぶされ、子守唄を歌ってもらっていた記憶、小さい頃水族館で巨大ジンベイザメが光っていた記憶…

あるとき、空はこんなことを琉花に言います。

この世界は目には見えない。

世界の質量率の90%は暗黒物質。

人間の中には記憶の断片がある。

大きくなった記憶が吸い寄せられ、さらに大きくなる。

それはまるで星の誕生、宇宙みたい。

宇宙は1つ、元はみんな一緒なんだよ。

生物はみんな、原料は同じなんだから。

このあたりからSF色が濃くなり、時間も空間も次元も交錯していきます。

ここからの私の文章もよく意味が解らない箇所があるかと思いますが(笑)、出来の悪い短編小説みたいに読んでください(ペコリ)

あるレビュワーさんは「観てくれとしか言いようがない」と完敗宣言までしておられましたorz

そのくらい映画後半は言語化できないものを、音、詩、映像、メロディー、アニメーションという伝達手段でガンガン伝えられます。

誕生祭の前日の夜、満天の星空の下、記憶の中の海を泳ぐ琉花…琉花も時空間を移動し始めます。

砂浜に上がると、空が琉花にキスをしました…と思ったら、空は小笠原沖で拾ってきた隕石を、琉花にゴクリと飲ませたんです。

君に託した……時間が…来たようだ…。

空はそのままヨロヨロと海に行って、死んで宇宙に溶け込んでしまいます。

クジラ主催の宇宙の誕生祭には招待者がいるのですが、それは隕石の持ち手――つまり選ばれたのは、隕石を飲みこんだ琉花になったんです。

ちなみに琉花(るか)の名前の由来は、原作で示唆されているのですが、進化系統樹の1番根っこにある細菌・古細菌・真核生物の共通祖先、「LUCA=Last Universal Common Ancestor」のこと。

つまり琉花は世界の元の「原人」とされていて、宇宙誕生を見届けるにふさわしい者と抜擢されたのでしょう。

湘南の現実生活に舞い戻ってきた琉花。

そこで私の大好きなキャラ、デデという東南アジア系(?)のおばさんに会います。

海獣の子供 デデ
画像出典:https://www.kaijunokodomo.com/

自称「海のなんでも屋」デデ。

特技がアイヌのムックリ(口琴)演奏のデデは、「びよ~んびよ~ん」と船に乗りながら演奏するのだけど、アイヌのムックリは風や熊の声を模倣していると言います。

ちなみに私もアイヌ博物館でムックリ演奏しようと思ったのですが「スコーン!」と糸が抜けて何回やっても不発に終わりました…。

誕生祭の当日、暴風雨に見舞われながら船を出したデデ、アングラード、そしてクジラに乗って沖に出る琉花と海。

風はあらゆることを知っている。

言葉はほんの少ししか知らない。

過去や未来の記憶に出会う。

(びよ~んびよ~んびよ~ん…)

・・・映画がこのあたりにさしかかると、私はあることを直感。

映画の世界観、ものすごくバリ島っぽい?

あながち、これは外れていなかった(というか的を得ていた)ことは後で解説します。

698.45ヘルツ、星の死ぬ音が聞こえる…

と船上でつぶやくデデ。

やはり空くんも宇宙の星の1つで、死に吸い込まれたことがうかがえますね。

ちなみに698.45ヘルツは、オクターブ上のファで、後で久石譲さんのサントラを聴きましたが、実はこの後半シーンまで、このオクターブ上のファは数回しか出てこないんです(ドシラソファってしかたなく降りてくるメロディー程度ですね)。

デデのムックリ演奏が始まるこのサントラから、短調のメイン音としてオクターブ上のファや、それを中心とするニ短調やヘ短調系に変わってい行きます(別に久石譲さんが狙ったわけではないと思いますが…)。

あらゆる海の生き物が琉花たちの進む方向、隕石が落ちた小笠原沖の「誕生祭」の舞台へ大移動。

(クジラの)ソングが来る、直接だよ!

と海が叫ぶと、

海獣の子供 くじら

琉花は、大口を開けたザトウクジラにざばーーーーんと飲みこまれてしまいました。

銀河、星雲、DNAの螺旋、原始菌類…あらゆる渦が交錯。

誕生祭は「未来、過去、現在」すべて1つに入り交じり、5次元的空間を作り出します。

その中に飲みこまれた琉花と海。

鍾乳洞のようなひだひだのクジラの体内は、まるで人の赤ちゃんが出てくる産道のよう・・・。

クジラの中に入った海は、黄色のタツノオトシゴに変わっていました。

この映画は人魚伝説になった魚ばかり出てきます。

ジュゴン、リュウグウノツカイ、ザトウクジラ、タツノオトシゴ…と、人魚伝説のある人間との境界があいまいなものばかり出そろうんですよ。

加えてタツノオトシゴは、卵と稚魚をおなかの育児嚢で保護することから「安産のお守り」として有名で、海は一瞬そんなお守り的存在になったことがうかがえます。

そしてここから、宇宙の壮大な安産が始まるのです。

「君の役割はここで終わりだ、隕石が目覚めた」とクジラの腸の奥からカツカツと歩いて来たのは、なんと人間の姿をした、死んだはずの空くん。

隕石は記憶を混ぜる。

空と海が重なり、命の唄が聞こえる。

宇宙の全部が声をあわせて。

・・・

星は 星々の。

海は 産み親。

人は 乳房。

天は 遊び場。

あ~この星の詩、何回聞いてもええわ~♪

いよいよクジラの誕生祭ソングに、琉花の腹の隕石が共鳴&増幅振動。

後で詳しく解説しますが、この時点で隕石は精子、海全体は子宮、琉花は受精卵を表わします(ここにもバリ的な価値観が現れているんですよ!)。

海くんは琉花の腹にある隕石を奪い取って口に入れようとしますが、「ダメ!」と琉花に奪われ、琉花が自分の手でもう1回に海に隕石を飲ませます。

「この2回隕石を飲む意味がわからない」と疑問に思う人は多いと思いますが、私も解釈に苦しみました。

1つのヒントは、バリで死者の定義とは「死=逃げ出した魂が口から出て戻ってこない状態」で、口を非常に重んじるんですね。

だから逆に口に隕石を自らの手で入れた琉花は、自ら海くんを命として誕生させたかったんじゃないかな?

なぜならその後、海は人間の赤ちゃんの姿になり、母親になった琉花に揺りかごのように抱っこされるからです。

海がジュゴンに育てられたことを知る琉花、自分の母との愛着関係に悩む琉花、母からの子守唄を異様に懐古する琉花だからこそ、人に産まれ直した海に愛を注ぎ込みたかったんじゃないかな?って思います。

ただ、海が人間の姿だったのも束の間。

隕石を飲んだ海くんは宇宙そのもの、宇宙の核のようになってビッグバンのような現象が起きます。

海獣の子供 ラスト私、スタジオ4℃には入れないわ…。

宇宙ぶしゃーーー!!天体ぶしゃーーー!!銀河ぶしゃーーー!!生命ぶしゃーーー!!と海から天へ大爆発。

このシーンが20分くらいは目まぐるしく続き、ついにすべてを誕生させて役目を終えた海くんは、宇宙に溶け消えそうになります。

海くん、どこへ行くの?私も、ずっとずっと一緒に…

海は黒い体に変貌し、2つの目がギョロリと残ります。

これもまたバリヒンドゥーのクリシュナ(=黒いという意)によく似た目つきで、クリシュナの語源はクリシュ(存在)のナ(源)

海獣の子供 目画像出典:https://www.vedicvaani.com/

途中、海や琉花の体内に銀河が渦巻くような絵が出てきますが、これは私たちの体内にも同じように宇宙が内在するということを表わしているでしょう。

図にするとこんな感じ↓↓ やっぱ私はスタジオ4℃に入れねぇ…w

海獣の子供 ミクロコスモス

誕生祭を経て、「生命の来る道と行く末」を琉花はしっかり見届けました。

それは・・・①人間は切り離された1個体として生きているのではなく、宇宙も人間も生物もすべての命は1つのものから生まれ、死ねば1つのところへ還りゆくということ。

②そもそも宇宙全体をひっくるめているというのが生命の1個体であり、人であり、私であり、あなたであるということ。

そんな宇宙創造の物語を、琉花は自分の目で確認したのです。

――誕生祭を終えた琉花は、海にぷかぷか浮いていました。

琉花は持っていた石、役目を終えた隕石、海くんの一部的な石を、再び飲みこんで体内に入れます…まるでお守りのように…。

時間・空間・彼岸・此岸の境界なく行き来していた海の魂は、琉花という存在ができる源でもあったんですね。

米津玄師の主題歌「海の幽霊」とは、空と海2人のことです。

ただし、原作にはこう書かれています。

幽霊にも色々ある。

物の幽霊、事の幽霊、過去の幽霊。

そして、未来の幽霊…。

これが何を意味するかわかりますか?

空と海は、琉花の来世の姿、または、まだ生まれていない命かもしれないってことです。

海に浮かんでいた琉花は両親に発見され、現実生活に戻りました。

港にいたデデが最後、琉花にこう言います。

私もアンタくらいのころに会ったのさ、海から来た子に。

私たちがどこから来て、どこへ行くのか…時をすり抜ける少年。

お前さんの手のひらにある世界は、小さな物語が姿を変えて潜んでいる。

アンタでいいんだよ、信じておやり。

海と空を、そして自分自身を!

そして帰り道、琉花の足元にハンドボールがコロンコロンと転がってきて、その先は自分をいじめた女生徒がいました。

命がけで誕生祭に参加し、成長を遂げた琉花。

(命の出どころと行き先がわかったんだから、もう何も怖くない)

そんな心の声が聞こえてきそうな琉花は、しっかりとハンドボールを女生徒に投げ返します。

懐が深くなったような、スッキリしたようなすがすがしい表情。

相手と自分も大もとは同じなんだし、「取り繕うことなく自分らしくあればいいんだ」ってメッセージは琉花の胸に深く刻み込まれたようですね。

そしてエンディング、米津玄師の歌声「大切なことはことばにならない~♪」が響き渡りますが、まだまだ立ち去らないでくださいー!

エンドロール後、なんと琉花に下の兄弟ができるんです。

琉花が母の出産に立ち会い、琉花自らへその緒を切って、下の子の命は個体化されます。

おそらくこの下の子は、空と海の2人の魂を持って生まれた、来世の子だったと察します。

ねんねんやあろ おべんろよ

この子かわいや かぎりなく

海にうまれた うおの子も

乳をふくませ あしもつき

はい、ラストもしっかり詩的な童謡が登場。

「うおの子」は空海2人のこと、そして琉花のことでもあるでしょう。

琉花が赤ちゃんをおぶり、いつも母親が歌ってくれた子守唄を歌いながら、深い深い映画は終わっていきます・・・。

3.海獣の子供の見どころ

海獣の子供 クジラ
画像出典:https://www.kaijunokodomo.com/

いや、見どころってどーするよ?って感じですよ。

深すぎるし広すぎる!

ただ原作者五十嵐先生が、映画製作陣に「自由に解釈していただいていいですよ」とおっしゃったそうなので、お言葉に甘えて私も自由に解釈させていただきます!

今回は「海獣の子供」に秘められた数々の謎を解釈していきますよ~。

海獣の子供はバリヒンドゥー?

海獣の子供 ワヤン
五十嵐大介さんのイラスト 画像出典:https://twitter.com/igadaioshirase

私がこの映画で「あっ、バリ島っぽい」と思ったのは、やっぱり「1人1人が宇宙」っていう内包的な考え方に近づいてからですね。

原作漫画はそこは注意喚起されていて、科学寄りにならず、かといって神話的になりすぎず、どっちつかずの曖昧なラインを攻めています。

ただ、映画はバリっぽさが前面に押し出されていると思いましたね。

後で原作者五十嵐さんのTwitterの原画、さらに原作も読んで、インドネシアの影絵芝居「ワヤン・クリ」が出てきていたので納得です。

「ワヤン・クリ」はバリヒンドゥーの儀礼には欠かせない影絵。

ただ日本の影絵とはずいぶん違っていて、子供に見せる人形劇みたいな位置づけではありません。

結婚式などの儀礼で徹夜で行う神聖なものであり、影の映る客席側は「現世」や「現実世界」、人形を操る演者側が「異世界」や「あの世」とされるんです。

日本だと客席(現世側)から見ますが、ワヤン・クリはあの世側(演者側)から見てもいいんです。

この空間移動は、まさに海と空がやっていたことですね。

ちなみに「隕石を精子」「地球を子宮」とする思想もワヤン・クリの定番である宇宙創造話から来ています。

原作では、その宇宙創造の話がアングラードの口から語られます。

宇宙支配神がその妃と共に、牛の背に乗って大海の上空を飛翔していたんです。

体がくっついてたからかな、そのうち宇宙支配神が妃に欲情してしまって、精液が1滴こぼれてしまった。

精液は海中に落下して、巨大な羅刹(らせつ=悪魔的存在)となって、天に昇っていったそうです。

それで思ったんですよね。

宇宙支配神の精液って「隕石」の事なんじゃないか…。

このように「海獣の子供」のストーリー展開は、バリヒンドゥーに深~いルーツがあるんです。

ちなみにアングラードの語る「宇宙支配神」とは、破壊神シヴァのこと。

シヴァ神はインドでは男根をかたどって祀られており、もともとは男根の神様なのです。

シヴァ神の役割とは破壊と再生で、すなわち「宇宙の再構成」ということ。

海獣の子供も同じように、地球を舞台とした宇宙の再構成の物語です。

バリヒンドゥーは二元論の世界観で表されますが、アングラードが使った船の名前が「ルワ・ビネダ」、すなわちrwa=2つ、bhineda=相反する、となっているのも興味深いですね。

そして誕生祭シーンで強調された、黒いの目のモデルっぽいクリシュナ神も、ワヤン・クリの定番芝居「ラーマーヤナ」の主要主人公の1人。

これらは海獣の子供バリヒンドゥー説の一例で、まっだまだありますよ!

ミクロコスモス×マクロコスモス

海獣の子供 宇宙
画像出典:https://www.kaijunokodomo.com/

続いてバリの宗教観、「ミクロコスモス(1人1人が宇宙を内包する)」という思想は、もろに海獣の子供だと思いました。

日本だとやっぱり人は人だし、他人は他人だし、宇宙は宇宙って別個に存在するでしょう?

でもバリって違うんです。

バリでは人間1人1人が神様であり、宇宙なんです。

バリに行った人の話だと、

バリ人は『自分がそれぞれ宇宙だ、お互いが宇宙だ』と思っているから、バリ人に文句を言っても始まらない!

と冗談を言っていました(笑)

「海獣の子供」とバリが少し違うのは、このミクロコスモス(小宇宙)1つ1つの根元が、共通のマクロコスモスモス(大宇宙)から来ていることかな。

つまり海獣の子供は一歩踏み込んで、「あなたも私も宇宙を内在したミクロコスモスであり、さらに1つの同じ宇宙から出てきたマクロコスモスの存在ですよ」ということを言っているんです。

神様⇔人間⇔宇宙はひと続きであり、この間を自由自在に移動していたのが映画では海と空。

ただ、海獣の子供はわざわざ「このお話はミクロコスモス×マクロコスモスですよ~!」なんて言葉では解説しません。

自然とそんな風に感じていくように作られているんです。

だから私も「映画館を出た後、違う自分に変えられた」という体験を久々にしました(笑)

冒頭、杖を落としたお年寄りに、それを拾って差し上げたという話。

海獣の子供を観ていなかったらスルーしていたと思います(恥!)

でも「この人も私も出どころは同じ、お互いが全体」という発想を持ったら、他人と私は根っこは繋がっているんだから、「他人に優しくすることは、自分に優しくすることと同じ」って思えてくるんですよ。

琉花もラストは結局そこに巡りついたんじゃないかな?

それをしれっと教えてくれるのが、海獣の子供の最大の魅力だと思いましたね。

元になった蛙の詩「誕生祭」が繋ぐもの

「誕生祭」という発想は、原作者の五十嵐大介さんが、蛙の詩人として有名な草野心平さんの詩「誕生祭」から発想を得たそうです。

長いですが、その詩をご紹介しましょう。

誕生祭

砂川原のまんなかの沼が夕焼け雲を映してゐたが。
もうむらさきの靄もたちこめ。
金盥の月がのぼつた。

蒲やおもだかが沼をふちどり。
その茎や葉や穂のびろうどには重なりあふほどの蛍たちが。
蛍イルミネーションがせはしくせはしく明滅する。
げんごろうの背中には水すましが。鯰のひげには光る藻が。

この時。
とくさの笛が鳴り渡つた。
するといきなり。沼のおもては蛙の顔で充満し。
幾重もの円輪をつくつてなんか厳かにしんとしてゐる。
螢がさつとあかりを消し。
あたりいちめん闇が沸き。
とくさの笛がふたたび高く鳴り渡ると。
《悠悠延延たり一万年のはての祝祭》の合唱が蒲もゆれゆれ轟きわたる。

たちあがったのはごびろだらうか。
それともぐりまだらうかケルケだらうか。
合唱のすんだ明滅のなかに。
ひときは高くかやつり草にもたれかかり。
ばあらばあらと太い呪文を唱へてから。

全われわれの誕生の。
全われわれのよろこびの。
今宵は今年のたつたひと宵。
全われわれの胸は音たて。
全われわれの瞳はひかり。
全われわれの未来を祝し……。
全われわれは……。

飲めや歌へだ。ともうじやぼじやぼじやぼじやぼのひかりの渦。
泥鰌はきらつとはねあがり。
無数無数の螢はながれもつれあふ。

りーりー りりる りりる りつふつふつふ
りーりー りりる りりる りつふつふつふ
りりんふ ふけんふ
ふけんく けけつけ
けくつく けくつく けんさりりをる
けくつく けくつく けんさりりをる
びいだらら びいだらら
びんびん びがんく
びいだらら びいだらら
びんびん びがんく
びがんく びがんく がつがつがりりがりりき
びがんく びがんく がつがつがりりがりりき
がりりき きくつく がつがつがりりき
がりりき きくつく くつくく ぐぐぐ
ぐぐぐぐ ぐぐんく
ぐぐぐぐ ぐぐんく
ぐるるつ ぐるるつ いいいいいいいいいいいいいいいいい
ぐるるつ ぐるるつ いいいいいいいいいいいいいいいいい
があんびやん があんびやん
われらのゆめは
よあけのあのいろ
われらのうたは

ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ
ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろろりつ

この詩は、蛙が、卵がおやまじゃくしへ孵化したことを歓喜しているさまを歌っているんですね。

さすが幼いころから神社に通うことが趣味だったという五十嵐さん。

ただここにもバリと通じるものを私は発見してしまったのです。

映画で出てくる、どう見てもルーツは南アジアであろうデデ。

デデが鳴らす口琴は、形状からしてアイヌのムックリで間違いないと思いますけど、デデとの風貌とはいまいち不釣り合いです(べつにムックリは誰が演奏してもいいんだけど…)。

口琴について調べたところ、口琴はシベリア~オセアニアまで、かなり広域に存在している楽器なのだそう。

バリの口琴は「ゲンゴン/genggong」と呼ばれ、音もムックリと同じように「びよ~ん」と鳴るのですが、ゲンゴンは蛙の泣き声を模倣している口琴なのだそうです。

元になった蛙の詩の誕生祭のBGM「ぎやわろつぎやわろつぎやわろろろりつ」を、バリ人は口琴で奏でるんですね。

ゲンゴンの他に、バリにはもう1つ蛙の声を真似た楽器があり、その名も「蛙の声」と呼ばれるスアラ・コドック/suara kodok。

海獣の子供 カエル画像出典:http://www.rhythm-com.jp/cont/shop.html

カスタネットのようだったり、ギロのようだったり、色々な形態のあるスアラ・コドック。

バリの口琴の特徴は、文化的・儀式的な思い入れが少ないのが特徴だそう。

例えば、海と空が発見されたフィリピンでは、口琴は「ピト」と呼ばれ、動物を呼ぶために演奏されるそうですが、ゲンゴンはもっぱら娯楽として演奏されるそうです。

ただ、バリ人が蛙を奏でることには面白い読みがあり、ガムランの銅鼓の上面には、蛙が「豊穣・再生象徴」として鎮座しているんですね。

つまり海獣の子供は元ネタの蛙の詩「誕生祭」から始まって、その蛙の鳴き声はバリの楽器、バリヒンドゥーの再生象徴という世界観まで、再び繋がり合うんですよ。

なんだかとっても不思議な関連性で、「繋がる」ということが映画の大切なテーマであることを思い知らされますね。

垂直思考と渦巻き思考

さて、バリからちょっと離れましょう!

皆さんは「渦」と聞いて何を思い浮かべますか?

原作者五十嵐さんは「渦」にの表現に大変こだわったそうです。

渦巻きは誕生祭シーンのメインとも言えるアイコンで、小さい渦から大きい渦まで何百?何千?の渦がどばーっと出てきます。

ある物理学者によれば、生命はDNAから銀河まで「r=aθ 」というまったく同じ方程式で解読されるのだそう。

つまり渦のエネルギーは、どんなミクロな生物にも、マクロな銀河にも共通して備わっているそうなのです。=宇宙は1つ

渦巻きと聞いて私が1番に思い浮かべるのは、やはり縄文土器のぐるぐる文様ですね。

縄文土器って、ものすごく個性的なぐるぐる縄文様が表現されていると思いませんか?

こういった渦巻き文様は「先住民」と名の付く文化にはたいていあります。

ユーラシア大陸の西端にあるネイティブ、ケルト民族は、今でもこの渦巻き文様を衣服や装飾に使っているそう。

そしてその渦巻きが何を象徴しているかというと「生・死・再生・生命の循環的思考」なのだそうです。

なるほど昔の人は「r=aθ」 が発見される前から、世界を渦模様で表現していたのですねぇ。

ちなみに渦巻き文様に相対するのは「西洋の合理的・垂直的思考」です。

東洋の日本は縄文土器に見られる渦巻き思考の民族だと思いますが、最近はどうも西洋の垂直思考に押され気味。

自分の身体に合わない筋肉をつけてもしかたない、余計に動かなくなる。

とイチロー選手が現役中インタビューで、野球選手の過剰な筋トレに「待った!」をかけていましたが、私たちが最近お疲れ気味なのも、体質に合わない垂直思考で世界を把握し、行動しているからかもしれませんね。

クジラの唄は宇宙の理法!?

海獣の子供 ソング
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最後にザトウクジラの唄について。

まず私は「ソング」というクジラの声の呼び方に「ファンタジーすぎじゃね!?」と違和感を感じたのですが、生物学的にもやはりザトウクジラは高度な「唄」を歌うのだそう。

クジラの祖先は5300万年から存在しているそうですが、彼らの唄は人間が今作っているような歌と驚くほど似ているのだそうです。

例えば

  • 人間と同じようなリズムを用いる
  • Aメロや盛り上がり、サビを作る
  • 1曲の長さが、人間の交響曲1曲分程度
  • 7オクターブの音域の中で、使う音程が人間とほぼ同じ
  • 打楽器的ノイズを、交響曲と同じようなパターンで入れる

つまり、ザトウクジラは根っからの作曲家なのです。

これについて、物理学者のブライアン・スウィムが興味深いことを言っています。

ドラマーはドラムを演奏しているだけだと思いがちだが、本当は世界を演奏している。

銀河の起源は、音楽にある。

銀河とその集合を組織したのは、宇宙が誕生したときに、最初に火の玉に浸透した「エネルギーのパターン」である「音楽」だ。

すなわち音楽とは、宇宙が誕生したときのエネルギーパターンの表現なのだということ。

これはただの(?)クジラの文献に書いてあったことですが、こじつけでも何でもなく、あまりに言ってることが海獣の子供に似すぎていて怖くなりました…。

さらにスウィムは続けます。

これらの音楽パターンが、火の玉を複雑な形態――およそ150億年後に「銀河」と名付けられる形態に変えた。

銀河は、火の玉(人魂、隕石)から生まれた音楽(ソング)の和音。

火の玉の音楽は銀河になり、星になり、鳥になり、人間になり、クジラになる。

()は海獣の子供の言葉で補足しています。

クジラは宇宙の理法であるソングを、人類誕生のはるか昔の5300万年も前から深海で歌い続けていたんですね!

そこへおびき寄せてくれたのが、彼岸と此岸の案内人である海くん空くんだったのかもしれません。

私たちにとっては「海獣の子供」という映画自体が、宇宙の理法を知らせに来てくれた海空コンビみたいです。

4.海獣の子供 ライターしおりの視点

海獣の子供 誕生祭
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私は正直、海獣の子供を観終えた後「この映画のレビューは書けない」と思いました。

そもそも非言語な世界を描き出す映画なんだから、それを言葉にするのはあまりに難しいし、陳腐な次元へ貶めてしまうんじゃないか・・・?って。

その中で私が感じた2点の重要ポイント、「言語を超えた体験」「琉花の成長とは何だったのか」について考察してみたいと思います。

言語を超えた体験への回帰

空はこう言うんです。

「言語で考える」ってことは、決められた型に無理に押し込めて、はみ出した部分は捨ててしまうということなんだ。

人は言語を猛スピードで発達させてきました。

人間の赤ちゃんも3~4歳ころから必死で言葉を覚え、物事を分化する思考を一生懸命獲得します。

言語によって私たちは混とんとした世界を判明に区切って、安定した意味体系を作って日常生活を維持しています。

言語だけでなく、均律を生み出した音楽もそう、天体の周期的な運行から離れたグレゴリオ暦もそうでしょう。

バリでは今でも、太陰暦に根差したバリ暦が生活に欠かせません。

バリ文化のシンボルであるガムラン音楽の音階は、貨幣経済が浸透し、楽器が売れるように「ドレミファソラシド」の音階が規定されたピアノの「平均律」を思いきり外します。

そういう多様性をスンナリ受け入れるんですね。

海獣の子供はまるでガムランのように「平均律」の言葉を外し、少ないセリフも思いっきり抽象度が高いです。

ただその意味がはっきりわからなくても、選ばれた言葉は心の深淵まで響いてくるような、非常に力強く美しいものがあります。

フランスの思想家バタイユはこう言っています。

詩は、意味体系を解体し、意味それ自体を超えていく。

感嘆の叫びや獣の咆哮のように、その音それ自体がすべてである瞬間を開いていく。

以前映画「長いお別れ」で書かせていただきましたが、ネット社会で人はどんどん言葉を記号化し、保守的に使うようになっています。

そんな言語社会の中、どうも人は理性による人間性の圏域内にいることに疲れ果てて、生命そのものに触れるような動物的次元に回帰することを望んでいるようにも思えます。

言い換えれば、それは人が「言語を超える体験をしたいという願望」でしょう。

海獣の子供のキャッチコピーは「1番大切な約束は、言葉で交わさない」でした。

そのコピー通り、琉花が約束の内容を言葉にして語ることは1度もありません。

あの一夏の経験で見て聞いた情報すべてが、彼女の言語を超えた経験です。

そのことを追随するように、映画「海獣の子供」はこざかしい説明もなく、壮大なアニメーション映画となって言語を超えた命の連続性や、世界の混沌というテーマを個人的体験として獲得させてくれます。

世界を切り取らない「言葉の世界を超えた経験」――これを映画館で体験できたことは、私にとってとても幸運なことだったと思います。

琉花の成長とはなんだったのか?

私はさんざん琉花を「コミュ障」と呼んできましたが、琉花はラストそれを克服したと思います。

琉花ぐらいのレベルで「人間の平均律」から外れる人って、正直どこにでもいると思うんですよ。

琉花は練習中、いじめっ子に足を引っかけられて転び、次のプレーでその子を肘でどついたので、職員室に呼ばれるんです。

おそらくここで「空気を読む」とか「そこそこ処世術がある」という平均的な人は、「すいませんでした」とか適当に謝って部活に戻ると思うんですよね。

でも、琉花は「先に向こうがやってきた」とかモゴモゴ言おうとして、結局退部になります。

人間に「平均律」があるとしたら、琉花はそこをちょっと外れている子なんです。

でも今の日本って、ちょっとでも平均をはずれようものなら、「コミュ障」だの「学習障害」だの「ADHD」だの、びっくりするほど「異様」が記号化された呼び名が存在します。

そして平均から外れた人を、新たな平均律の基準のカテゴリに押し込めてしまおうとするんですよね(「ド」がダメなら「レ」とか)。

原作と映画の1番の違いは、原作が群像劇であるのに対し、映画は琉花1人の成長劇としたことです。

結局、琉花の成長とはなんだったのか?

まず1つは、言語によらないコミュニケーション手段が存在することを知ったこと。

次に、平均律と平均律の間の行間…人間が理解できない部分を空と海が読み解いてくれ、「自分が理解されている」という安心感を得たこと。

最後は、究極、自分たち人間が「個」と分断される前の「大元は皆同じ」を目撃して、平均律と平均律の間を線引きする「我」という境界線を、取っ払うことができたこと。

この3つのプロセスによって、世界に対する自分の位置付が変わったのだと思います。

琉花の成長とは「平均的な人間になれた」ということでは決してありません。

むしろ「『平均律』も『平均律と平均律の行間』もひっくるめて、世界はすべてのハーモニーで奏でられる」という「全体」を見ることができたのが成長です。

つまり、自らをはみ出た単音ではなく、ハーモニーの構成音の1つと認識できたことですね。

琉花は誕生祭の経験後、他人を敵/味方とか、好き/嫌いで分類するのではなく、「共鳴し合う関係」として位置づけたと思います。

こういう琉花の思考の変化に救われる人って、たくさんいるんじゃないかな?

明治以後、西洋思想の流入によって、私たちは人間集団を「個」に分離し、「個人」という近代的自我を持つ生き方に大きく転換させられました。

目標を見つけろとか、自分の個性を知れとか、自分と他人は違うとか、自立して社会に出ろとか・・・さんざん言われてきましたよね(笑)?

しかし、それは次第にさっきの垂直思考の「平均律のどこかにハマれ」という暗示に差し替えられてきたのです。

今の私たちは「平均律に入ったまま社会にコミットしなければ、生きてなんかいけないぞ」という人生を、知らず知らずのうちに歩まされています。

10歳の革命家Youtuberゆたぼんがいっとき騒がれましたが、彼もこれに限界と悲鳴をあげた一例でしょう。

映画前半で、琉花は空くんから「無責任」とか「人まかせ」とか挑発的な言葉を言われます。

琉花はそんな自分の課題に対して、「努力」とか私たちが1番やりそうな手段で克服したのではありません。

ただ「共鳴の関係性」の中に自分を置いたら、勝手に成長していたのです。

なんつー宙返り的な手段!これぞ渦巻き思考の手法!

海獣の子供は、現代を生きる私たちにも「全体を見る視点」の大切さを与えてくれます。

そういう意味では私たちも、誕生祭による生まれ直しが必要なのかもしれません。

5.海獣の子供をオススメしたい人

海獣の子供 母
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長々語ってまいりました海獣の子供。

ちなみに「海獣」とはジュゴンやマナティのことで、地上に繁栄しはじめた哺乳類の一部が水の世界に適応し、「海獣=海に帰った獣たち」と呼ばれているからなんですよ。

そんな未知の深海を探検するような映画、ぜひこのような方に観ていただきたいですね。

海洋生物に癒されたい人

海のアニメーションや、海洋生物に癒されたい人は迷わずオススメ。

今夏は「きみと、波に乗れたら」や「ブレス あの波の向こうへ」など海映画が目白押しですが、海獣の子供は命懸けでオススメしたいです!

浦沢直樹をして「今日本で1番絵が上手い漫画家の1人」と言わしめた五十嵐大介さんは、多摩美大を卒業されています。

漫画の絵も素晴らしく美しいのですが、20代の頃CGのアニメーターと付き合っていた私としては、「この漫画、どうやって動くの?」ってアニメ化も気になるところでした。

まず、主人公など人物の近影は、五十嵐さんの繊細な線がそのまま残されて、ドキッとするものがあります。

壮観な背景に人物が動く今回のアニメ技術は、正直ジ〇リを彷彿としましたねぇ。

温かみがありつつ、迫りくる海の威力、自然への畏怖…水族館どころか遠洋航海でもしているような気分です。

どんなにストーリーがわからなくても、アニメーションの美しさにほれぼれすることは保証します!

スピリチュアルやオカルトを切り捨てている人

海獣の子供 くじら
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スピリチュアルやオカルトに興味がない人にはオススメです。

海獣の子供は唯物論に待ったをかける映画ですが、かといって押しつけがましくないです。

映像のすごさがそれをカバーするような感じで、2時間の間にしれっと「この世には見えないものもあるんですよ」と教えてくれますね。

海の中なんて、見えそうで見えないロマンあふれるところだからね。

特に企業戦士(死語)なんかにはオススメですね。

自殺したい人

海獣の子供 海
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自殺したい人には1番観てほしいです。

なんていうかな、人間は1人じゃないんですよ。

それは絆とか血縁とか思いやりで繋がるとかそういう意味じゃなくって、そもそもすべての生物として出どころがおんなじなんだって言うことに、引き戻される感じです。

今私たちは、誰かが定義したような世界のルールに乗っ取って生きてますが、自殺したい人はそのルールに「ええ加減限界!」という方々でしょう。

琉花のお母さんは謎めいていますが、原作では元海女さんであったことが語られます。

世界の大部分は「人間じゃないもの」でできてるでしょう?

自分は世界を割合の通りに見ているだけなのに、どうやら他の人たちは違うらしい。

って言うんですね。

人ってのはしがらみあうだけに存在するんじゃないことを、海獣の子供は色んな角度から教えてくれますよ。

たぶんこの映画を観たら少し気持ちがゆるんで、死にたくなくなると思います(笑)

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